読書記録:タイパの経済学

読書記録の初投稿です.読んだ書籍の内容について引用しつつ,学んだことや考えたことを記録していきます.

廣瀬凉:タイパの経済学(幻冬舎新書)

・印象に残った箇所(←書籍からの引用)

→学んだ/感じたこと

・情報が溢れているからといって,それを必ずしも消費しなくてもよい.

→情報が増えた時代に情報をうまく利用することが重要だと感じた.情報が多いからといって(使いもしない)すべての情報にアクセスし,その情報を消費するという状態は情報に利用されている状態であり,「人間の為の情報」が「情報の為の人間」となってしまい本末転倒である.そのような状況にならないように,情報を取捨選択する能力を高めていきたいし,情報に利用されることなく,情報を利用する社会にしていく必要があると感じた.情報を提供する(情報を取捨選択する)能力,サービスの需要がこれから高まっていくのではないだろうか.

・ニッチな嗜好,人にいいづらい趣味を持っていても,現実世界の人間関係に理解を求めたり,現実世界の人間に配慮しなくても,ネット上でそのニッチな消費対象を嗜好している他の消費者を見つけ,そのコミュニティに身を置くことが可能なのである.

→ 現実の空間とバーチャル空間(ネット,SNS等)の2つ以上の世界を生きることが可能な時代になってきた.現にnoteのアカウントもその一つなのかもしれない(現実世界で関わっている人に本の感想なんて話すことはほとんどない).ただ,2つ以上の世界を一人の人間が生きるということは,どのようなことなのだろうか.どこかで自分がどの世界を生きている何者なのか見失ってしまうのではないかと感じてしまう.(特に各世界によって異なる人格を使い分けているのであれば)

・趣味のコミュニティに高いプライオリティを置く者にとっては,SNSでの人間関係そのものが「好きなモノを消費していいんだ」「好きなモノを認めてくれる人がここにはいる」といったように,自己肯定感を高めてくれる場所となるのである.そのような側面から見ても,SNSはオタクというアイデンティテを形成,維持するために重要な場と言えるだろう.
・ただオタクになりたいわけではなく,オタクということを他人に認知されたいという本当の目的がそこにはある.オタクになりたいという願望は,オタクと認知されるための手段にすぎないのだ.

→現実の空間とバーチャルの空間の2つ以上の世界を一人の人間が生きるとなると,自分がどの世界の何者かが分からなくなり(=アイデンティティを失った状態),失った自己肯定感がある分、過度に承認欲求が表れているのではないか.もはや自分が生きているのか分からなくなっており,自分が誰かに承認されないと気がすまなくなっているのではないか.そもそも承認欲求が高まってしまうのは,対面では知ることのできなかった多くの人の様数がSNSなどを通じて知ることができることによって比較が生まれるからなのではないだろうか.SNSで他人の様子を知り,自分と比較して自分のことを心配するということにならないように,SNSとの付き合い方にも気を付けることが,これからの時代に重要なことではないだろうか.

・これだけの情報やモノに溢れているなかで一つの興味対象だけを愛せというほうが酷だし,いろんな趣味があることはなんら問題のあることではない.また,好きなモノを消費するうえで,義務感や他人からの強迫観念に駆られてしまうのもおかしいとは思う.

→趣味がないといけない,他人から趣味に対して何か言われるというのは,現代の多様性という文脈から大きくそれた流れなのかもしれない.

これまで知ることのできなかった情報やモノに出会うようになったという,人類が便利(豊か?)になるように努力してきた結果,情報やモノが溢れかえっていなかった時代に比べて,その膨大な情報を消費し,一つの趣味に没頭しているのが良いという固定観念を押し付ける世の中になっているのであれば,便利になるために多くの情報を得ようと努力してきた人類の歴史は何だったのだろうか,となってしまう.そうならないためにも,情報とうまく付き合い,取捨選択をしながら生きていく能力が重要になっていくのではないだろうか.好きなモノを消費するのに対する義務感や他人からの強迫観念にかられないようにするためには,好きなモノを消費してよいという自分の意思というものが,社会に溢れている情報に負けないようにする必要があるのではないだろうか.


・生理的価値を健康を維持するものととらえるのならば,生理的欲求を満たすだけでなく,「必要不可欠ではない消費」もすることで,人間らしい生活につなげることも含まれるだろう.

→必要不可欠なことを行い,それ以外のことは不要,という考えはいたるところに存在していると思う.ただ,この本の筆者も言う通り「必要不可欠でない消費」が人間らしい生活を行う上で重要であると感じる.2020年にパンデミックにより,「不要不急の外出」を控えるようにとの呼びかけがあったのは記憶に新しいところであるが,はたして人間は「不要不急の外出」を行わずに生活できるのだろうか.社会人であれば家と会社の往復と日用品の買い物だけしか外出を行わないという生活にどれだけの期間耐えられるだろうか.ちょっとした旅行やお出かけなどがないと人間は(広い意味での)健康を維持できないだろう.つまり,「必要不可欠でない=不要」と簡単にすべてを合理化することが必ずしも全体最適ではないのではないだろうか.


・私たちは,「無駄な時間を削減したい」と思うときと,「過ごしている時間を少しでも長引かせたい」と思うときがある.東京-大阪間を移動する際,鈍行を使っても,新幹線を使ってもその目的は達成できるが,移動という無駄な時間を省けば省くほど余剰が生まれ,他のことにその時間を使えるようになる.

→そもそも「移動=無駄な時間」なのか.移動先での行動が主たる目的で移動することが手段にすぎない場合は,「移動=無駄な時間」かもしれないが,その移動の時間が負の効用でなくなるような移動があれば,話は変わってくるのではないか.「移動=無駄な時間」であるなら,最終的にはすべての移動を「どこでもドア」を使って行うのだろうか.もしそのような世界になったとしたら,街中には誰一人として移動する人がいなくなってしまうだろう.完全に合理化してしまったら人間生きていけない,今日も無駄な時間を楽しんで生きていきたい.


「タイパ」という言葉から現代社会について色々考える機会になりました.普段「タイパ」という言葉を使うことはないが,「タイパ」に近い考えを持っていた部分があったことにも気づかされました.また,このように投稿することで頭の中でぼんやり考えていたことを言語化でき,良い学びになりました.読書記録はこれからも続けていきたいと思います.次回は内容をもう少しまとめられるようにしたいと思います.

#読書記録 #タイパの経済学 #タイパ

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