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「福島原発20キロ圏内ツアー」報告文

 今回のツアーは、ダニーさんの自宅から始まった。前日にダニーさんの家で宿泊したのは、鳥取から来た僕と、水俣から来たせきねベイベーさんだった。夕暮れ時、庭先でかほるさんも交えて様々なことを語り合った。
せきねベイベーさんは5月1日に行われた水俣病患者団体と環境省との懇談会で、環境省がマイクの音声を切ったことが問題になっていることを話した。「患者とコミュニケーションを図りましたという証明」をする為だけに行われるような懇談会の話しを聞きながら、人間のことを軽く見ているのだろうと感じた。ダニーさんは20代の頃に従事したウラン採掘のバイトの話しをしてくれた。ウラン採掘で被爆することなど知らされることなく働いたその経験を振り返り、「人の命なんてどうでもいいと思われている。」と語った。この社会のあちこちに「あなたのことはどうでもいい」という、冷たい声が沈んでいる。国の為なら、経済の為なら、会社の為なら、電気の為なら、あなたの犠牲は仕方がない。あなたの生活はどうでもいい。あなたの存在はどうでもいい。この声の存在を常に意識し続けたツアーだったように思う。そしてそれは、ツアーから帰ったあとも引き続き考え、意識し続けている。

初めて訪れた福島県の浜通りは、5月の陽光に満ちていて、若々しい緑色の草木が光を帯び、空はどこまでも高く、とても美しかった。バスの車内でガイドをしてくれた今野さんは、新たな施設の前を通る度に「ここでも縄文遺跡が発掘されて工事が中断されました。」と教えてくれた。まだ国も県も無い遥か昔、心地の良い場所を求めて移動した縄文人がこの地で暮らすことを選んだことに納得した。豊かな山があり、海があり、生命を祝福するかのような陽の光に満ちている。悲しいことに、僕の目には映像で見た津波が襲いかかってきた3月11日の風景、黒い津波と灰色がかった空が焼き付いてしまっており、その映像がそのまま福島県のイメージとしてこびりついてしまっていた。実際に訪れてみて、その印象は覆された。3月11日以前の、ある日の請戸小学校の窓から見える風景写真は、松林の向こうで穏やかに波打つ太平洋を写していた。その窓から、ここにかつて当たり前にあった小学生たちの日常、親たちの暮らしが見えてくるようだった。キラキラと光を反射する雄大な海を眺めながら通う小学生たちの姿。だが美しい風景やかつて当たり前にあった暮らしが透けて見えてくればくるほど、埋め尽くされたフレコンバッグと「帰還困難区域」と記された看板の存在も重さを増し、目の前に突きつけられるようだった。「おれたちの伝承館」に展示されていた絶景スポットと呼ばれる海岸の写真、その海岸で泳ぐことも今は出来ないのだろう。僕の妻が生まれ育った島根県島根町の美しい海と、そこから肉眼で確認することのできる島根原発。「おれたちの伝承館」に飾られた絶景スポットの写真は、避けられるべき、だがいつか訪れるかもしれない島根町の未来を写しているようだった。
放射能で汚染された土地は、除染ができる。滞在した施設おおくまーとの敷地内も線量は低かった。しかし施設の外の林の中は相変わらず高い線量だったという。除染作業は土を入れ替えるということだ。土を入れ替えるには、既存の建物はもちろん、そこに生えている木も切り倒し、一度更地の状態にする必要がある。高線量の全ての森林エリアを除染することは可能なのだろうか。木は土地の記憶でもある。人の寿命を超えて存在してきた木を媒介にして想起されるもの、それも間違いなく人を支える重要な要素だ。縄文時代から人が暮らしてきたその場所、その歴史が断ち切られてしまうということ。そんな土地を、この島にあと幾つつくれば日本は満足するのだろうか。
僕自身は13年前の3月11日、栃木の農業学校でボランティアスタッフをしていた。有機農業を学びながら、祝島の上関原発反対運動を友人らと注目していたこともあり、チェルノブイリ原発事故についても調べていた。震度6強の地震に見舞われた栃木は、福島原発から100キロほどしか離れておらず、原発の情報に聞き耳を立てていた。そして案の定事故が起きてしまった。そこから避難と、本屋を開業する為の土地探しとが始まった。栃木から一度実家のある千葉へ行き、3月15日の夜に自転車で西日本へとアテもなく飛び出した。電車も止まり、クルマもない実家では、交通手段は自転車に限られた。「関東全域が住めなくなるかもしれない」という、これまでにないような凄まじい危機感を抱いて、母には「レンタカー借りたら迎えにくるから!」と伝えて家を出た。当然、友人たちにも避難を促した。そしてそのことによって何人もの人と衝突をしてしまった。ある人からは「自分はこれから重い障害を持つ子どもを産むことになるかもしれない。それでもここに残ると決めたんだ。逃げるあなたの身勝手を押し付けないでくれ。」と言われた。鳥取へ着いてからも、原発や放射能を話題にして、何人もの人と口論になった。やがて、口論をどれだけ繰り返しても、個人的な人間関係が悪化するばかりで、国や電力会社にはなんの影響力も持たないことに疲れてしまった。実家が千葉県にあり、鳥取で暮らす自分のような立場でさえこういう状況なのだから、福島県に暮らす人々/暮らしていた人々はどれだけ疲弊しているのだろうか。県外からガイガーカウンターを持ってやってくる人々にも辟易としているのではないか。原発と放射能を語ることと「風評被害」とが結び付けられてしまった世間の中で、自分が何か言葉を語ること、行動をすることは福島に暮らす人々にとって何の益ももたらさないばかりか、マイナスになるのではないか。そんなことを考えていた13年間だった。「今は物理的に離れたほうが良い」と色々な人に言ってきた自分が福島県を訪れること。そのことに対する後ろめたいような気持ちもあったし、「原発はやめたほうがいい」という気持ちを抱いて福島県を見て回ることは、暮らす人を自分の政治的な主張の為に利用してしまうことになるのではないか。様々なことを考え、ずっと行くことを躊躇していた。それでも、2011年3月11日のことを考えなかった日は今日まで一日も無い。福島原発から漏れる放射能は「ただちに影響はない」と繰り返し言葉にされた。「ただち」とは何時から何時までを指しているのか。僕の意識はずっと2011年に留まり続けている。原発事故が起きることも想定内だったということも後に分かった。今もまだ収束作業を終えることができていない状況の中で、未だに原発の是非を問うている。是非の結論は事故が起きた時点で出たはずだという、行き場のない答えも2011年に置き去りのままだ。
国は、土地や人間、動植物、命をどうでもいいものとして扱っているということを上辺だけの嘘で覆い続けている。3月11日から、嘘が社会の土台となって、そのうえで暮らし続けているように感じている。「嘘はバレても問題ない」という態度が政治の世界では常態化した。13年間のあいだに、国内外で様々な問題が日々起こり続け、解決されずにいる問題は土台の上にどんどん堆積され続け地層化している。そして地層の下に埋もれた問題は社会から忘れ去られる。嘘について言及されることもなくなる。地層の下に眠る問題を、自分の目でしっかりと見ないことには、意識を現在に持ってくることができない。ずっとそう思って暮らしてきた。
そしてダニーさんと出会い、13年間の逡巡を飛び越え、ようやく福島県へ行くことができた。不幸中の幸いにして、関東全域に人が暮らせなくなる状況にはならなかったし、福島県全域に人が暮らせなくなるという状況にもならなかった。しかし、原発付近の高速道路には温度計のように線量計が設置されており、放射能汚染を意識の外へ出して暮らすことはできないと感じた。南相馬で雑貨屋を営む方は、線量計を持ってこの地での暮らしを続けているそうだ。線量の高い場所、低い場所がまばらにある町の中で暮らすことの厳しさを想像した。少なくとも僕は、虫が大好きな2歳の息子とこの町で暮らすことはできないと思った。草むらや林の中を自由に遊ぶことができない場所では。そしてそう思うことも、この町で暮らすことを決めている人に伝えることなどできない。放射能は身体的な問題も、情緒的な問題も生んでしまう。様々な状況がある。原発が近くに見えるのに線量が低いエリアもあるし、遠く離れていても線量が高い場所もある。ツアーで移動するバスの車内では、線量の高い場所を通過する度にガイガーカウンターの音が鳴った。目に見えず、匂いもない、先刻通過した場所となんら変わらない風景でも、線量だけが数値を変える。体で実感できない数値の変化に意識を向けるのはうまく飲み込むことができない現象だと感じた。
双葉町で牛飼いとして暮らし、事故後ずっと埼玉で暮らし続けている鵜沼さん。死んでしまった牛たち。「おれたちの伝承館」では、取り残され白骨化した牛を再現した作品が展示されていた。飼い犬のライゾウを置いて避難せざるを得なかった少年の絵日記もあった。原発がなければ経験せずに済んだ悲しい出来事は、見るだけでも辛かった。何故、「せめて同じような出来事は繰り返さない」と宣言することができないのだろうか。鳥取へ帰り、店を訪れる人にライゾウと少年の絵日記の説明をしながら、僕は涙を抑えられなくなった。島根原発を動かそうとする人々、再稼働してもいいと考えている人々、一度みんなで「おれたちの伝承館」へ行こう。鵜沼さんの話しを聞こう。泣きながらそう思った。
13年間、様々な逡巡を抱えて、福島県へ行くことを躊躇していたが、僕は行くべきだと思った。ここで起きたこと、今もまだ避難生活が続いている人がいること、そのことをそれぞれの目で見て、話しを聞かないことには、これからの文化を考え始めることはできない。なによりも、ツアーを案内してくれた方々が多くの人々に起こっている出来事を伝えようと活動し続けていることをしっかりと受け止めたいと強く思った。声を発している人に耳を傾けること、自分の目で見つめること、それがまずなによりも大切なことだ。「あなたの存在はどうでもいいものなんかではない」ということを態度としてあらわすこと。そのはじまりが耳を傾けることだ。福島原発周辺へ自ら赴くことを、様々な理由から躊躇していたが、暮らす人への配慮は最大限に高めつつ、自分自身は拒絶されることへの覚悟ぐらい持とうと思った。能登半島へほうれん草を山積みにして向かった鵜沼さんの話しを聞いて、強くそう思った。ボランティアが来たら迷惑かもしれない、物資は十分に足りているかもしれない、そうやって悶々としていることよりも、実際に現地へ行き、ほうれん草を手渡した鵜沼さんの勇気。現地の人は「数ヶ月ぶりの生野菜だ」と泣いて喜んだそうだ。
「福島原発20キロ圏内ツアー」から帰った数日後、僕の店の前で「島根原発2号機の運転差止め」の為に活動していた方が演説をしていた。申請が却下された日の夕方だった。演説を間近で聞いていたのは僕と妻と息子の3人だけだった。演説を終えた顔は疲れ切っていたが、僕は島根原発をとめる為に店を通じて活動をしていく気持ちがあることを伝えた。「原発とめよう秩父人」の方々がお互いに繋がり、地道に活動を続けてきたこと、鵜沼さんや今野さんが起きた出来事を伝え続けていること、その粘り強さと元気を山陰でも伝えていくことが自分の仕事だと感じた瞬間だった。
13年間、一人で悶々としていた自分が実際に福島へ足を運ぶ機会を得ることができたのは、「原発とめよう秩父人」の方々が地道に活動を続けてこられたからで、本当に感謝しています。そして恐らく、自分と同じように悶々とし続けている人が山陰にもいるはずです。山陰でネットワークを築き、秩父の方々、福島の方々、全国の方々と繋がることができたらと願っています。

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