福島原発20キロ圏内へいってくる

2010年の秋頃、僕は栃木の農業学校でボランティアスタッフをしていた。その年は原発建設を巡る山口県祝島に関するドキュメンタリー映画が何本か上映され、僕も周辺の友人たちも祝島に関心を寄せ、行ける人は現地へ行き、何が起きているのかを知ろうとしていた。それと同時に原発そのものについても調べることを同時並行で行っていた。ウランの採掘で人が被爆すること、原発労働者の日常、祝島で強行的に建設が進められていること、チェルノブイリでどの程度の範囲が汚染されてしまったのか等。2010年の12月号か1月号辺りのdays japanには、震度6程度の地震で福島原発が壊れるというような内容が書かれていて、それも読んでいた。
春にはボランティア期間を終えることになっていた僕は、いよいよ農業の修行を終えて本屋ができる土地を探しに行こうと計画を立てていた。まず向かおうと考えていたのが祝島だった。行った先で出会う人、起きている出来事、それらに触れて考え、発信しながら、本屋ができる土地と巡り合うことを期待していた。まだ「汽水空港」という名前さえなかったが、自分のやりたいことは当時から「田畑をしながら本屋をやること」で、その目的は今よりマシだと思える社会をつくること。どのような社会が今よりマシなのか。それは人を搾取せず、自然を破壊せず、自分で自分の生活をつくっているという実感が得られる社会。食べ物も住む場所もマーケットから供給されるものを金で購入するしかないという状況ではない生き方、それを望めばできる社会。社会というというより、僕はそのようにして生きていくことができたなら、モリテツヤは喜びに満ちて生きていけるだろうと感じていた。
「原発」というのは、リスクを周縁の人、動植物に押し付けた上で都市に生きていける人間だけが恩恵を預かる装置で、僕には資本主義というものを象徴するものに見えていた。祝島に向かうのは、その是非を問う為だった。
ボランティア期間の最終日、荷物のパッキングをちょうど終えた時に揺れがきた。3月11日だった。農業学校は福島原発から100キロ程しか離れておらず、翌日のテレビ中継からは煙の上がる原発が映っていた。すぐに実家の千葉へ帰り、そして13日の夜に自転車で千葉を発った。自転車には寝袋、着替え、パソコンをくくりつけ、そのまま避難と土地探しを兼ねた旅をスタートした。その時脳裏にあったのは
・関東全域が住めなくなるかもしれない。
・原発の是非を問う必要がなくなった。
・人も社会も新しい生き方を始めるだろうという予感。
だった。不幸中の幸いで、関東全域に人が住めなくなるほどの事故にはならなかった。だが原発は未だに稼働し続け、新たな建設計画が立ち上がったりもしている。そして、ごく一部を除いて「新たな生き方/社会」は立ち上がることはなかった。しかし僕は、ずっと「新たな生き方/社会」を夢見続けているし、つくろうともがき続けている。事故から13年経つが、3月11日のことを考えなかった日は一日もない。「ただちに影響はない」という言葉によって問題を直視せず、ただ時間が過ぎることを促されたままになっている。
原発のことを語ることや、放射能について語ることは衝突の原因になるということも身に沁みて理解した。もう直接誰かとその話をすることはほとんどない。でも、僕の意識は恐ろしく重要な社会問題に蓋をしたままでは先へ進めず、意識だけがずっと2011年に留まっている。

アキナとも出会った。アキナの実家は島根の海辺で、島根原発の10キロ圏内にある。建設から50数年で事故を起こした福島原発を見れば、アキナの実家の町も数十年後に住めなくなる未来は起こり得ると思えてしまう。そして島根原発は今再稼働に向けて動いている。松江の街で創造される様々な物事、文化も事故一発で壊れる。そういったことが、特に何も議論されることなく進められてしまう。川が流れていくのをただ眺めるように。でも事業は川ではなく、人の考えで行われることだ。疑問や不安があるなら、やめることができる。

そんなふうにして事故後をずっと暮らしてきた。
そして去年、ダニー・ネフセタイさんと出会った。ダニーさんはイスラエルに生まれ、兵役に就き、その後日本にたどり着いて家具職人をしている人だ。戦闘機のパイロットになることを夢見て暮らした少年期を振り返り、如何に国の教育の影響が大きかったのかを著書に記している。(『国のために死ぬのはすばらしい?』イスラエル軍元兵士が語る非戦論』)
原発事故以降は、戦争の為の教育、軍需産業、原発、マイノリティの様々な問題、それらを「人権」というテーマで結びつけ、解決の道を図ろうと提唱し続けている。「原発とめよう秩父人」という団体を立ち上げ、事故以来2年に一度「福島原発20キロ圏内ツアー」を企画している。僕は来週、ダニーさんたちが企画したこのツアーに参加する予定だ。

友人のぐっさんの活動を手伝い、福島に支援物資を届けるというようなことはした。でも、福島原発周辺に行くのは初めてのことだ。事故以来、原発周辺の人々がどのように暮らしてきたのかを知らない。様々な目線、言葉に晒されてきたのだろうということは想像できる。日々の暮らしが様々な方面の政治的思想に利用されてきたのかもしれないとも思う。僕もその一人になるのかもしれないという不安もある。ツアーでは様々な戸惑いを覚えることになる予感がある。でも、行って直接見てきたい。言葉を交わしたい。そして出来ることなら、島根や鳥取でその報告会をしたい。人の暮らしを利用したり、倫理観を裁いたりするのが目的ではない。今生きている人と問題を共有して「どのような世界に生きていたいのか」を語り合いたい。2011年から先に進んでいけたらと思う。

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