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名前をつけてやる

小学一年生のころ、姪ができた。舞い上がって姪のためにいろんなプレゼントを用意する母の姿に私はなんだか自分が取り残されたような、忘れられてしまったような孤独を感じて、私と姪とどちらが好きか聞いたのを覚えている。母は私のほうが好きだと答えた。近いから。それを聞いて、私は悲しかった。当時はうまく言葉にできないショックを受けたのだけれど、あれは悲しかったのだと今はわかる。

私はきっと、私が私であることを好きだと言ってほしかったんだと思う。ずっと。物理的距離に関わらず、私をまるごと愛してほしかったのだと思う。最近になってやっと気が付いた。母も照れくさかったのかもしれないし、真意のほどはわからないけれど、大人になってもずっと引っかかっていた何かがこれですっと楽になった。

小さい頃はただ起こったことをそのまま飲み込むしかなくて、消化しきれないまま未だに引っかかっているいろんな感情があった。今まではフラッシュバックしたときにそのまま無理やり押さえ込んでいたけれど、あのときのあの気持ちは悲しかったのだ、怖かったのだ、怒っていたのだ、と最近はひとつひとつ名前をつけるようにしている。

怖いと思うこと、怒ること、なんだかいけないことのように思ってしまっていたけれど、自然な感情を持つこと、それでいいんだとやっと思えるようになった。母親に1日無視されるのも、父親が怒って物を破壊するのも、小さいころの私には本当に怖いことだった。

わからないものはうまく扱えないけれど、名前をつけてしまえば自分の中でうまく並べて整理ができるようになる。すべてに名前をつけられるわけではないし、言葉にならないままでもいいものもあるのかもしれないけれど、自分の中でぐちゃぐちゃに絡まったものをひとつひとつ解いていくみたいでなんだかすっきりする。

自分に向き合うことはなかなか難しいけれど、今の自分も、過去の自分も、これからの自分も、自分で自分のことを抱きしめられるようになれたらいいなと思う。