見出し画像

ほんそれ「つたない日本語=思考力が低い、わけではない」

いわゆる外国人労働者に向けた、日本語能力の検定試験事業をいまの会社で担当して5年が過ぎました。ということは初めてベトナムに行ってからも5年。この間ビジネスパートナー、その家族や友人、法人顧客個人顧客、現役の役人元役人、などいろいろなベトナム人と知り合う機会がありました。(なお彼らとの基本的なコミュニケ-ションは日本語です。英語を話せるひとの絶対数が少ないから)

だから-という接続詞が順当かどうかはおくとして-たとえば「技能実習などという悪法はすぐに廃すべし」という人「移民が増えれば治安が悪くなる、国へ帰れ」という人あたりと比べれば、今の日本がおかれている労働力不足という状況と、そのため国外からの手を借りないとやっていけない状況について多面的に認識せざるをえない機会が多く、その分「外国人寄り」のマインドを持っている。はずなんですよ、私。
でね、そんな私でも、という話なんですが、気を抜くと「たどたどしい日本語の語り手」を言語力相応の思考の持ち主というような、とんでもなく誤った認識を持ちそうになることがあります。
2019年9月7日付withnews記事“外国人労働者の「日本愛」と「絶望」ベトナム語で届いたアンケート”は、それをあらためて思い出す契機になった、非常に読み応えある内容でした。

話す日本語が完璧ではないというだけで、子どものような扱いをされたり、思考力や人格を認められない外国人もいるようです。例えば技能実習生のことを、雇用先の人は愛情をこめて「うちの子たち」と言ったりもするけれども、やっぱり子どもではありません。

それなあ。
うっかりすると、そんなふうになってしまう。自戒以外の何もねえな、と思いながら言うんですけど。
で、以下はベトナム人が母語で書いたという、日本生活へのコメントを(アンケート結果の全データがダウンロードできるので)ちょっとだけ抜粋してみます。

私たちベトナム人は勤勉でまじめに働いているのに、日本人労働者のようには尊重されず、日本人は私たちを安価な労働力としか見なしてくれません。日本のような資本主義の国は、平等性や民主性についてよく考えられているはずなのに、今その国に住んでいますが、私たちは差別されているようです。なぜでしょうか。
日本に来てしまったので仕方がありませんが、二度と来ることはないでしょう。労働力を搾取されるだけでなく、精神面でもストレスを感じます。これは一つの経験として受け止め、家族の元に戻れるよう早く時間が流れていくことを毎日願っています。
日本に来れたからと言って幸せだと勘違いしている人もいますが、私は、どこに行っても働かないとお金は作れないと思っています。今の私の生活は、豊かな人に比べたら大したことはないですが、それ以外の人に比べたら、私は良い見本だと思われているかもしれません。
私の望むことは何でしょうか。人間は欲深いものです。いくらあっても満足しません。日本は人としての私を磨いてくれました。成功を望むなら、努力が必要です。決してあきらめないことです。

「たどたどしい日本語」の語り手、としか認識していない人たちが母語で何を考えているか、をこの質と量で伝える記事は、私は初めて見ました。

そういえば、ベトナムの友人たちのfacebook投稿を最初に目にして感じたのは、ポエム多くない? ということだった、と思い出します。
彼らの生活に詩が根ざしている、と言うとおおげさに聞こえますが、そして、そこで語られることばが高低さまざまであることはもちろんですが、彼らが読書らしい読書をしている風景をほとんど目にしたことがない、という事実と釣り合わないオンラインでの光景に、驚いたのです。
でも、上記で引いたような表現力は、内省の反復のうえで初めて手に入れることが可能なものじゃないですか。

貧乏な国から稼ぎにやってきているんだから、あいつらが考えているのは金のことだけだよ。……って本気で思っている日本人の多さよ。

私は今まで、多くの事を経験してきました。そして、日本に来てから今までの経験についても、たくさんの人との出合いがありました。しかし、残念ながら、自分と同じ志の友人や先輩には今のところ出会うことができていません。ほとんどの人は、仕事をするためのツールとしてしか日本語を使っておらず、取得した資格で物を言っているだけです。学問として学んでいるというよりは、資格を取得するための一時的な学習に偏っています。同じ志の友人や先輩にまだ出会ってないと言いましたが、実際にはいるのですが、とても遠いところにいます。いつか同じ志の人と出会えたら、まだ知らないことを共有し合いたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?