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聖アンデレ(1-F) イエスの実父パンテラ

イエスの家族について、新約聖書には断片的にしか書いていません。ヒントになるような聖書の記述は、そう多くはありません。

とはいえ、聖書は複数の人間によって書かれた書物を取りまとめた文書集で、人間によって改訂が続けられてきたものです。

ちょっとした箇所にみられる不整合を負うことで、文章の裏に何があるのか追うことは可能でしょう。

イエスの系譜

まず、マタイ福音書とマルコ福音書の記載の違いをみてみましょう。マルコ福音書は、大工はイエス自身でありイエスの父親については何も語っていません。他方で、マタイ福音書の方は、「の息子」という表現を挿入することで、大工はヨセフのことになり、イエスが「ヨセフの真正な息子として近隣住民に認識されていた」というニュアンスを出していることが分かります。巧妙なすり替えですね。 

■マルコ福音書(6:3)
これはあの大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブとヨセとユダとシモンとの兄弟ではないか。女兄弟たちは、ここで、わたし達の所に住んでいるではないか。 

■マタイ福音書(13:55~56)
これはあの大工の息子ではないか。母はマリアで、兄弟はヤコブとヨセフとシモンとユダではないか。女兄弟たちは、みんなわたし達の所に住んでいるではないか。

次に、イエスの系図について説明しようとした文章が、マタイ福音書に記載されています。

アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリアの夫ヨセフの父であった。

このマリアからキリストといわれるイエスがお生れになった。
(マタイ福音書1:2~16)
 

もっとも、この直後にイエスがヨセフの血を継いだ息子で無いことが明らかにされます。この結果、イエスをダビデ王の直系であるという説明はできなくなっています。

しかし、そうであれば、(1)そもそも、このような系図を示す狙いはどこにあったのでしょうか?また(2)系図の中に、旧約聖書に出てくるタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)を書く必要はあったのでしょうか? いずれも不品行な行為をした女性、またはそのたぐいの女性とみなされている人々です。それを祖先として名前を出すことで、イエスの評判や権威が下がったりはしないのでしょうか? こういった疑問が湧いてきます。

ちなみに、この不品行については、イエスを同時代人がバカにした際にも使われた理屈でした。

ファリサイ派のユダヤ人がイエスに向かって言った。
「わたしたちは、不品行の結果うまれた者ではない。」
(ヨハネ福音書8:41) 

イエスのことを、不品行で産まれた人間と罵っているわけですから、マリアに不品行があったという指摘と読むことができるでしょう。実際、2世紀に活躍したラテン教父テルトゥリアヌスにも、次のような文章を書いています。

これが彼だ、わたしは言おう。
大工の、あるいは娼婦の息子、
安息日の破壊者、サマリア人にして悪霊憑き!
(テルトゥリアヌス『見世物について』第30章)

タルムードでも、この観点からも、たびたびイエスは揶揄されています。

「あなたの幕屋には患い(nega’)も近づかない」(詩編91:10)とは、あなたがナザレ人イエス(Yeshu ha-Notzri)のような、公に自分の料理/皿を台無しにする(maqdiah tavshilo)息子や弟子を持つことがないということである。
(タルムードより。サンヘドリン篇103a)

聖書外典であるニコデモ福音書にも、次のようなシーンがあります。

ユダヤ人の長老達がイエスに言う。
「だいたいがお前は不倫の関係から生まれたのではないか。・・・
お前の父親のヨセフと母親のマリアとは・・・民の中で日陰者だったからだ。」
(ニコデモ福音書2:3)

実際、ユダヤ教からキリスト教に対する重要な批判の一つはイエス個人の資質に向けられてきました。イエスは未婚の母(または売春婦)とその愛人の息子であるから、ダビデ家系のメシアになれるはずはなく、いわんや神の息子であるはずもない、というのです。 

以上から考えられることは、こういうことではないでしょうか?

 【仮説】ーーー
イエスは、母マリアが結婚前に妊娠しているため、一般のユダヤ人からは「不品行」(結婚していない男女間での子づくり)による出生とみられています。
これをマタイ福音書の作者は逆手に取ったものと考えられます。イエスが一般民よりもダビデに近いことを示しつつ、ダビデの系譜の中にも「不品行」な存在はあり、何も恥じることではないというメッセージを打ち出したのではないでしょうか。
ーーー

イエスの父親は誰か?

イエスの実の父親は「パンテラ」という人物だったと言われています。まず、古代ユダヤ教の基礎文献であるタルムードは、キリスト教への鋭い批判を多岐にわたって展開していますが、この中に「イエス・ベン・パンテーラ」(パンテラの息子イエス)という表現がしばしば登場し、揶揄の対象になっています。

(彼は)スタダの息子だったのか、(むしろ)パンデラの息子(ではなかったか)。
ラヴ・ヒスダは言った、夫(ba’al)がスタダであり、同棲者/愛人(bo’el)がパンデラであった。(しかし、)夫がパッポス・ベン・イェフダで、むしろ彼の母がスタダではなかったか。彼の母は[ミリアム]であった。彼女は(彼女の)女性たちの[髪を]長くのばさせていた。
これは、彼らが彼女についてプンベディタで述べたことである。この女は、自分の夫に背を向けた(忠実でなかった)(satat da mi-ba’alah)。

  (タルムードより。シャバット篇104b(ミュンヘン写本95)。
ペーター・シェーファー『タルムードのイエス』p.23)

なお、女性が髪を伸ばす行為は、タルムード内では、性に奔放であることの象徴として描かれています(シャバット篇104b、サンヘドリン篇67a、エルビーン篇100bなど)。母マリアが性に奔放な存在だ、というのがユダヤ教徒からキリスト教徒への攻撃の一つとして行われていたということです。また、「スタダ」とは、「正しい道から逸れる、迷い出る、不忠実になる」を意味するヘブライ語・アラム語のsatah/sete’という言葉に由来するあだ名とされていたと言われています(ペーター・シェーファー『タルムードのイエス』p.24)。 

次に、2~3世紀にかけて活躍した神学者で、キリスト教の「宗教としての発展」に大きな影響を与えた教父オリゲネスは、『ケルソスへの反駁』という本を著し、イエスは、マリアとパンテラの間に生まれた子だと言われていると書いています。

ここでわれわれは、再びかのユダヤ人の代弁の言葉に戻ろう。
「イエスの母は、彼女の婚約者の大工から姦淫の咎めを受けて放逐され、パンテーラというひとりの兵士によって懐妊した」と記されている。
(オリゲネス『ケルソス駁論Ⅰ』p.39) 

さて、このパンテラが誰かは、正直、よく分かっていません。 

有力な説としては、1859年に鉄道工事の際にドイツで発掘された墓石の主と考えられています。
 

(墓碑銘)
 シドンのティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラ
 享年62歳
 40年間軍務に服した弓兵第一コホルスの兵士、ここに眠る

レバノン出身で、40年にわたりローマの兵士として働いたために、ローマ市民権が与えられたと考えられ、それがティベリウス帝治下だったのでティベリウス・ユリウスというローマ人の名を授かったと推定されています。パンテラはフェニキアのシドン出身とされ、また彼が弓兵第一コホルス(歩兵隊)に所属していたことから、マリアがイエスを身籠もった時期に、ユダヤの土地で占領軍として勤務していたことが分かります。

ここから推定される話は、以下のようなものです。

【仮説】ーーー
ローマ軍(占領軍)としてサマリア地域またはユダヤ地域に駐屯していたパンテラは、地元の若い女性マリア(16歳前後)と交際し、妊娠させます。ただ、マリアは、地元の30~40歳代の男性ヨセフとの結婚が決まっており、むりやり二人は引き裂かれます。
パンテラは、配置替えとなり、ゲルマン地域(ドイツ)での辺境警備に従事して、そこで一生を終えます。
ヨセフは、一旦はマリアとの婚姻を破棄しようと考えますが、悩んだ結果、逆に「聖霊からの授かりもの」と考えなおしてイエスの父親となることを引き受けます。マリアはイエスを産んだ後は、ヨセフとの間に4人の兄弟(ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン)と何人かの姉妹を産みます。ヨセフは、自分の子息として、また後継者としてイエスに仕事を教え、引き継いでいきます。 
ーーー

もちろん、これは推論に推論を重ねただけなので、正しいかどうかは確認しようがありません。ただ、こう見ていくと、人間としてのイエスの表情が見えてくるように思います。
 



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