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聖アンデレ(2-D) 弟子たちの対立、イエス教団の分裂

フィリポやステファノなどは大きく「ヘレニスタイ」(ギリシア系)と言われます。対立する一派は「ヘブライオイ」(ヘブライ系)と言われます。 

イエス没後、この対立が先鋭化していき、それぞれの教義が発展します。新約聖書27文書にも影響を与えていきます。

まずは大きく違いを把握してみましょう。

ヘブライオイの中心は、義人ヤコブです。当初はペテロが中心になってイエス教団を引き継ぎましたが、早々に聖フィリポ等と激しく対立し、分裂させてしまいます。

イエスの後継者であるイエスの弟 義人ヤコブに教団が引き継がれ、ユダヤ社会からも教団として評価されるようになっていきます。正統派のユダヤ人として生まれ育った義人ヤコブは、兄イエスの関係がなければ教団を引き継ぐことはなかったでしょう。そのため、ヘブライオイ系の文書は、ほとんどがユダヤ教の教えを引き継ぐものになります。

 他方、ヘレニスタイの中心は、聖フィリポです。聖パウロなどに受け継がれました。神殿批判の意味を探る中で贖罪の十字架という概念を生み出し、世界宗教としてのキリスト教の礎を築きました。

 しかし、何故対立したのでしょうか。

ユダヤ教の異教徒への禁忌

 もともとユダヤ教は、偶像崇拝・星辰崇拝を、不道徳な行為、重大な罪として非難・弾劾してきました。(旧約聖書の出エジプト記が根拠です。その後、タルムードの中にも、ネズィキーンの巻(アヴォダー・ザラー篇)において、偶像崇拝・星辰崇拝を否定・厳禁するための文書がまとめられています。)そのため、ギリシア系の人々に対しても禁忌の意識をもち、これが転じて差別意識や敵意を抱きがちになったものと考えられます。

 主は言われた。
「見よ、わたしは契約を結ぶ。・・・わたしが、きょう、あなたに命じることを守りなさい。
あなたが行く国に住んでいる者と、契約を結ばないように、気をつけなければならない。おそらく彼らはあなたのうちにあって罠となるであろう。
あなたは他の神を拝んではならない。その名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。おそらくあなたはその国に住む者と契約を結び、彼らの神々を慕って姦淫を行い、その神々に犠牲をささげる。あなたは招かれ、彼らのいけにえを食べ、またその娘たちを、あなたの息子たちにめとり、その娘たちが自分たちの神々を慕って姦淫を行い、また、あなたの息子たちをして、彼らの神々を慕わせ、姦淫を行わせるに至るであろう。」
(出エジプト記34:10~16)

 

ラビ・イシュマエルは言う。
イスラエルの地の外に住むイスラエルの人々が、天真爛漫な気持ちで星辰崇拝を助長した。星辰崇拝者がその息子のために祝宴を催し、その町に住むすべてのユダヤ人を招いたとすると、どうするのか。
たとえ、彼らユダヤ人が、持参した彼らの食物を食べ、持参した彼らの飲物を飲んではいても、また(彼らユダヤ人付きの召し使いが)彼らの前に控えて給仕したとしても、聖書に記されているのは、そのようなユダヤ人を、あたかも、死体(星辰崇拝)にささげられたいけにえを食するかのような事態と見なしているのではないだろうか。
それは「あなたは招かれ、彼らのいけにえを食べるようになる」(出エジプト記34:15)と言われているからである、と。
(タルムードより。ネズィキーンの巻「アヴォダー・ザラー篇」8a)
 

イエスは、こういった観念を打ち破った人物でした。ヘレニスタイは、だからこそイエスに従っていました。しかし、イエスの死後、ヘブライオイとヘレニスタイは、なんらかのきっかけのために相互に反発しあい、やがて対立へと一気に発展していきました。その「きっかけ」が分かれば、いろいろなものが見えてくるはずです。

対立のきっかけとは?

前回(2-C)を鑑みると、イエスの死に関する行き違いが、普段からの不満を爆発させたのではないか、と思われます。

信徒分裂におけるヘレニスタイ 

さて、それぞれの考え方を見てみましょう。
まずヘレニスタイの主張は、使徒行伝にあるステファノの殉教(使徒行伝6:8~7:60)によく現れているでしょう。神殿との対決に同席できなかったメンバーは、師やユダの無念を晴らすべく、エルサレムにとどまってイエスの教えを広めようとします。しかし、イエスのことを神と直接交信できる「人の子」と主張したため、地元の人々の逆鱗に触れ、ステファノは殺されてしまいます。 

ステファノは言った。
「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える。」
ユダヤ人たちは大声で叫びながら、耳をおおい、ステファノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。
(使徒行伝7:56~58)
 

この結果、ヘレニスタイたちは、エルサレムから追放され、または自ら山を下りていきます。そして、できるだけ大きな都市で布教を図りました。聖フィリポ・聖トマスが行政・経済の中心地であるカイサリアに行ったことは、先述の通りです。
 

その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリアとの地方に散らされて行った。・・・散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。
(使徒行伝8:1,4)
 

アンティオキア(シリア)やアレクサンドリア(エジプト)にも、キリスト教のコミュニティをつくり、発展させていきました。特にアンティオケには、7人の助祭の一人「アンティオケの改宗者ニコラオ」が地元に戻って信仰を広めたように思われます。 

さて、ステファノのことで起った迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者には、だれにも御言を語っていなかった。ところが、その中に数人のキプロス人とクレネ人がいて、アンティオキアに行ってからギリシア人にも呼びかけ、主イエスを宣べ伝えていた。そして、主の御手が彼らと共にあったため、信じて主に帰依するものの数が多かった。
このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンティオキアにつかわした。彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大勢になった。
(使徒行伝11:19~24)

尚、バルナバは、アンティオキア教会の大立者です。聖パウロに近い立場、つまり、エルサレムとは異なる立場の人物です。従い、ここにあるバルナバがエルサレムから派遣されたという記載は、事実とは異なると判断できます。この箇所は、後述の通り、紀元50年代に、エルサレムに残ったヘブライオイが、ヘレニスタイによる布教の成果を一網打尽に取り込むために後代になって主張しだしたものと考えられます。(聖フィリポの項で前述した通り、この時期を描く聖書の記載には、エルサレム側やペテロの地位を向上させるための脚色が施されているものと考えられます。)

信徒分裂におけるヘブライオイ 

他方、ペテロたち(ヘブライオイ)は、どうしていたでしょう。エルサレムにとどまります。

ステファノ事件があった後にエルサレムにとどまるということは、正統派ユダヤ教徒として暮らすことを決めた、ということでもあります。(そうでなければ、ステファノ同様に処刑されるか、またはエルサレムから追放されたことでしょう。)その意味で、義人ヤコブやペテロにとっては、イエスの行為やイエス教団の歴史は隠したい過去(黒歴史)だったことでしょう。 

このことが垣間見える記載が聖書に遺されています。

まずは、ペテロたちが捉えられた場面。深く反省し、「イエスの教えは棄てる」と宣言をしていた(または、させられていた)ことが推察されます。

大祭司が問うて言った。
「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を氾濫させている。」
(使徒行伝5:27~28)

 次に、聖パウロがペテロのところを訪問に来る場面。(ペテロは、聖パウロからは「ケファ」と呼ばれています。)

わたしはケファをたずねてエルサレムに行き、ケファのもとに15日間、滞在した。しかし、主の兄弟ヤコブ以外には、ほかのどの使徒にも会わなかった。ここに書いていることは、神の御前で言うが、決して偽りではない。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」1:18~20) 

これは、おおよそ西暦36年頃(イエスの磔刑から6年後)のことと言われています。聖パウロがエルサレムを訪問し、2週間以上ペテロのところにいたにもかかわらず、ヨハネをはじめとするイエスの他の弟子には会わなかったというものです。 

彼らは、袂を分かったヘレニスタイたちによって、イエス教団の教えが復活し勢力を伸ばしていくことに危機意識を覚えたことでしょう。エルサレム市内において問題を起こさないよう、異分子である聖パウロに対しては、(義人ヤコブとペテロの2人以外には)「会わせない」という方針で臨んだものと思われます。

資産家夫妻殺害事件

とはいえ、エルサレムでも事件が起きます。 

イエス教団への入会希望のある資産家の夫婦を、ペテロが殺してしまい、当局に逮捕されてしまうのです。資産家夫婦に対するペテロの発言は、寄付金が少ないことをもって神への冒涜とするもので、ただの言いがかりに過ぎません。殺された資産家アナニヤにしても、善意で寄付しているのに、「もっと寄こせ」と言われ殺されてしまうのですから、納得いかなかったことでしょう。 

アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った。
「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ。」
アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。
3時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。 そこで、ペテロが彼女にむかって言った。
「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか。」
彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った。
「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう。」
すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。
そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが・・・使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。・・・
彼らは使徒たちを呼び入れて、むち打ったのち、今後イエスの名によって語ることは相成らぬと言いわたしてから釈放した。
(使徒行伝5:1~40)

なお、この事件に対しては、(すべてのものが共有財産として扱われる)原始共有制の中に、夫婦という別ロジックの関係性を持ち込もうとしたために起きた不幸な事故(または資産家夫婦に問題があった事象)という説明がされる場合もあります。しかし、甚だ疑問です。

先ず、ペテロ自身も結婚しており、イエスの弟子になる前からローマで処刑されるまでの長い間妻を帯同し、子どもももうけています。そのため、夫婦だから入信できないということは、そもそもあり得ません。また、資産家夫婦が一部の資金を手元に残し教団にすぐには差し出さなかったから、という説明がされることもありますが、資産の分配をどのように行うかは財産の保有者の権利です。財産を全額出さない者を裏切り者として処刑するのは強盗の論理であり正当化のしようはありません。

このような行為は、やはり聖アンデレや聖フィリポが庶務を仕切っていたら起きない性質のものだと思われます。つまり、この事件は、聖アンデレや聖フィリポが、ペテロとは袂を分かった後に起きたことをよく示しています。

当局が、実行犯の首領とされたペテロを逮捕し、むち打ち刑に処したのは賢明だったと言えるでしょう。そして、おそらくこの事件をきっかけにペテロはエルサレムを放逐されたものと思われます。

4世紀の歴史家エピファニウスによれば、ヤコブは、エルサレム教会の初代教会長を紀元38年から亡くなるまで(紀元62年まで)、約25年間つとめたとされています。そうすると、この事件が起きたのは聖パウロがペテロを訪問した2年ほど後と推測されます。

エルサレム教団の長(イエスを継ぐもの)

ちなみに、ペテロがイエスの後継者と考えているので、このような推測になりますが、本当はペテロはエルサレム教団の長になったことはないとも考えることができます。先に進む前に、この点を確認しておきましょう。
 
まず、イエスは、自分になにかあれば弟のヤコブを頼るよう遺言しています。

弟子たちがイエスに尋ねた。
「私たちは、あなたが私たちのもとから去られるであろうことを知っております。その後に、誰が私たちの上の大いなる者となるでしょうか。」
イエスは答えて言われた。
「あなたがたは、あなたがたがそのもとから来たところに、すなわち義人ヤコブの下に行くであろう。」   
(トマス福音書第12節)

 次に、エウセビオスは、次のように書き残しています。

エルサレムの監督の在任期間を記した文書は残されていないが、伝承によれば彼らはきわめて短命であった。さまざまな資料から、ハドリアヌス帝の時代のユダヤ人包囲(135年)までに監督職を継承した者が15人いたことだけは伝えられている。彼らはすべてへブル人であったが、キリストの知識を真に継承していたので、そのような事柄を判断する権限をもった人たちによって監督職に相応しいと見なされたと言われている。・・・歴代の監督の名を初代から挙げておこう。
初代は、主の兄弟と呼ばれたヤコブだった。次が第2代のシメオン。第3代がユストス。第4代がザッカエウス。第5代がトビヤ。第6代がベニヤミン。第7代がヨハネ。第8代がマッテヤ。第9代がフィリップス。第10代がセネカ。第11代がユストス。第12代がレビ。第13代がエフレス。第14代がヨセフ。そして最後の第15代がユダスだった。
以上が、使徒たちの時代からのエルサレムの都の監督であり、全員が割礼を受けていた。
(エウセビオス『教会史』4:5)


注意すべきは、この15代の中に、ペテロは入っていない、ということです。(もし第2代のシメオンがペテロのことであったら、そのような記載となっていたことでしょう。)つまり、ペテロは、イエスの死後、ずっと義人ヤコブの監督下にあったというのが歴史的には正しいのでしょう。

Q伝承集団

さて、エルサレムに残ったイエス教団の元メンバーは、義人ヤコブの下で、正統派のユダヤ教徒となるために活動していたことでしょう。

ヤコブはユダヤ人でキリスト教徒になった者には、律法を厳しく守ることを求めたようである。キリスト教徒となるようなユダヤ人は、ユダヤ人であることをやめるのではなく、かえって模範的なユダヤ人とならねばならないのである。ヤコブ自身もたいへん敬虔な生活を送り、それ故にエルサレムの民衆から大きな尊敬を受けていたようである。
彼は律法を重んじたが、民族主義的な態度に閉じこもるのではなく、律法を普遍的に適用できるような方向への努力を行っていたといえるだろう。いわばユダヤ教の普遍主義的拡大を企てていたといえるかもしれない。
(加藤隆『「新約聖書」の誕生』p.108以下)

ペテロを含め、この時に義人ヤコブの下にいた元イエス教団のメンバーが、おそらくQ伝承集団になったのだろうと思われます。マタイ福音書とルカ福音書のみに共通しているエピソード(いわゆるQ資料、Quelle)を伝えた集団です。根っからの正統派ユダヤ人として生まれ育った義人ヤコブと、イエス教団にいたメンバーとでは律法の範囲と重要性に対する認識が大きく異なっていたため、義人ヤコブのようなファリサイ派的な人物には恨みつらみを募らせたことでしょう。

この集団が相対的に独立した伝承圏をなしていたと思われる理由は、その強烈な終末期待、イスラエル宣教への集中(異邦人伝道は考慮外)、イエスへの「人の子」告白(「キリスト」というタイトルは出ない)、そして時と共に深まる伝道の挫折感と「迫害される預言者」という自己理解、イスラエル断罪のモチーフなどである。さらには、Q文書には受難物語が存在せず、また「・・・の(罪)のために」といういわゆる「贖罪」定式も欠如している点が注目される。「復活」(正確には「起こされること」)という表象も確認できない。こうした点から、現在大部分の研究者が、Q文書の背後に、それを担った独自の集団を想定するのである。
(佐藤研『聖書時代史 新約篇』p.70)

この特徴を検討してみましょう。

大ヤコブの刑死

エルサレムのスタンスが試される事件が続きます。12弟子の一人でスペインに行っていたヤコブ(ゼベダイの子のヤコブ)がエルサレムに帰ってきたのです。当時(紀元44年頃)の支配者であるヘロデ・アグリッパ1世によって大ヤコブは捕らえられ、殉教しています。

ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。
(使徒行伝12:1~2)

大ヤコブは、イエスの教えしか知らず、その後の義人ヤコブの方針を知らなかったはずです。義人ヤコブやヨハネたちは、自らがトラブルに巻き込まれないよう、大ヤコブを見殺しにしたことでしょう。

エルサレム会議

ヘレニスタイは、エルサレムの軛がないことから、アンティオキアやカイサリアなどの大都市で、イエスの教えを積極的に広めていきました。しかし、彼らはユダヤ教の律法(特に割礼や食物上の禁忌)に関心がなく強制もしないため、ヘブライオイ(特に義人ヤコブ)からみれば、許し難い存在であったに違いありません。ヘブライオイたちは、ヘレニスタイの拠点を回って、律法の重視を説くようになります。

ここで混乱が生じるようになります。

さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。 そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。・・・
エルサレムに着くと、彼らは教会と使徒たち、長老たちに迎えられて、神が彼らと共にいてなされたことを、ことごとく報告した。ところが、パリサイ派から信仰にはいってきた人たちが立って、「異邦人にも割礼を施し、またモーセの律法を守らせるべきである」と主張した。そこで、使徒たちや長老たちが、この問題について審議するために集まった。
(使徒行伝15:1~6)

こうして行われたエルサレム会議(紀元49年)でしたが、関係者の間に意見が一致することはなく、「当面は現状維持」で終わったようです。しかしこの後、ヘブライオイが、体制を整えた上で「イエスの弟」の権威の下に、ヘレニスタイの拠点に人を派遣し、ヘレニスタイたちの教えを徹底的に批判・非難するようになります。

ヘブライオイのなかで柱とされていたのは、義人ヤコブと、ペテロ、ヨハネです。

ヤコブとケファ、ヨハネは、柱として尊敬されていました
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」2:9)

例えば、ペテロ(ケファ)とヨハネは、聖フィリポのいるカイサリアに向かい、聖フィリポの権威や、弟子シモンのことを否定・中傷して回りました。

彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ誰にも下っていなかった。
(使徒行伝8:16)

ペテロが(聖フィリポの弟子)シモンに言った。
「おまえの心が神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、神の救済にはあずかることができない。だから、悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにはお見通しだぞ。」
(使徒行伝8:20~23)

この転換の理由は、よく分かりません。可能性の議論としてあげるのであれば、ローマ帝国のユダヤ政策の変化かも知れません。皇帝クラウディウス(在位41~54年)は、即位した時点で50歳を超えており、博識と善意をもって政治に当たったと言われています。解放奴隷を側近とし、皇帝に権力を集中させ、ある種の官僚制の構築に邁進しました。彼はユダヤとアレクサンドリアという属州の騒乱を手際よく処理した治世者としても高い評価を受けています。

ユダヤ人は、キリストの煽動によって絶えず騒擾を起こしたので、皇帝クラウディウスは、彼らをローマから追放した。
(スウェトニス『皇帝列伝』クラウディウス篇25:4)

上述のエルサレム会議と同じ49年のこととされています。キリスト教が当初下層民を中心に広まったことを鑑みると、彼らが暴れる根拠をつくったのが、「神の前での人間の平等」を唱えるヘレニスタイたちの主張であることは論を待たないでしょう。ヘブライオイの活動がエルサレム外にも本格的に展開した背景には、ヘレニスタイたちの主張(ひいては下層民の暴動)を抑えるために、当局が義人ヤコブを利用し、ヘブライオイ経由でイエスの教えへの信者をすべて監視下に置こうとしたのかも知れません。 

聖パウロの受難

この被害にあった中には、聖パウロもいます。聖パウロは、53~55年の2年ほどギリシア都市エフェソスに、滞在していますが、この時に事件が起きます。ちなみにエフェソスは、アルテミスの大神殿という世界の七不思議や世界遺産にも選ばれた建築のある古代都市です。生パウロの活躍した500年ほど前には、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが活躍した場所でもあります。

まず、ギリシアの港湾都市コリントスにある教会の中で、派閥争いが起きたというのです。聖パウロはここで「コリント人への第一の手紙」(54年頃)を書きます。

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧めます。みな語ることを一つにし、お互いの間に争いがないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合って下さい。
兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされています。あなたがたは、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」と互いに言い合っていることではありませんか。・・・
ユダヤ人は証拠を要求しますが、ギリシア人は知恵を求めます。そして、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。このキリストは、ユダヤ人には躓き、異邦人には愚かであっても、召された者自にとっては、ユダヤ人にとっても、ギリシア人にとっても、キリストは神の力であり神の知恵なのです。
(パウロ「コリント人への第一の手紙」1:10~12,22~24)

この頃はまだ、手紙をみて反省してもらえばいいという程度の認識だったようです。しかし、事態は悪化していきます。他の手紙をみていきましょう。

「コリント人への第2の手紙」

この手紙は、一部(6:14~7:1)に加筆があるものの、聖パウロの真筆とされ、5つの手紙の集合体と考えられています。

この点についての解説は数多く出ていますが、以下を引用しましょう。

第一の手紙でコリントへの再訪の希望を述べたパウロであったが、その後、コリント教会にはパウロへの新たな反対者がエルサレム教会から侵入してきていた。その結果、コリント教会の人々の心がパウロから離反していく事態が生じた。手紙Aは、その解決のために書かれたと考えられる。後述する手紙Cからうかがわれる事態の展開からすると、解決にはかなりの時間を要したようである。・・・
エルサレム教会からの侵入者たちは・・・パウロに対して、第一の手紙から読み取れるよりもさらに激しい批判を展開し、パウロの使徒職をも疑問視する態度をとったのであろう。その批判に対してパウロは、次の「手紙B」において、さらに先鋭化したかたちで反論を展開する。・・・
この手紙Bの調子は、感情の高まりを抑えることのできない、パウロの激昂した精神状態を如実に伝えている。パウロはコリント教会に送り込まれてきた侵入者たちを、「自己推薦をする者たち」、「偽使徒たち、狡猾な働き人たち」と呼んで敵愾心を露わにしている。また、「大使徒たち」とも呼んでいることから、彼ら侵入者はエルサレムの使徒たち(イエスの実弟ヤコブをはじめとするイエスの直弟子たち)と密接な関係にあったことがうかがわれる。侵入者たちは「他のイエス」「異なった霊」「異なった福音」を強調した。つまり、モーセと同様の偉大な「奇跡行為者イエス」を称賛し、その霊に与って自分たちもそのような強い者になっていくことを、コリントの人々に説いていたのであろう。・・・
手紙Bを送り届けたことと・・・パウロの同労者テトスのコリントへの派遣とによって、コリント教会の事態は好転した。・・・コリントから帰還するテトスに会うため、わざわざマケドニアにまで赴いたという事実は、パウロがいかにコリント教会のことに心を砕いていたかを如実に物語っている。
(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』p.75以下)

「フィリピ人への手紙」

この手紙も、聖パウロの真筆とされ、3つの手紙の集合体と考えられています。フィリピというのはギリシャ北部にあったマケドニア王国の王フィリッポス2世(アレクサンダー大王の父親)にちなんで命名されたギリシア都市で、もともとはフェニキア人の植民都市という長い歴史をほこる都市です。

ここでもコリントスと同じようなことが生じたようです。

 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
(パウロ「ピリピ人への手紙」3:2)

 この「犬ども」という表現は、「この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかり」(イザヤ書56:11)を踏まえ、「神を畏れぬ者」として非難するための表現と思われます。

 「手紙Bで述べられている論敵たちのユダヤ主義的傾向は、<ガラテヤ人への手紙>および<コリント人への第2の手紙>(涙の手紙)の背後にあるエルサレム教会からの侵入者たちの主張と酷似している。・・・手紙(B)でパウロは、論敵たちを「犬たち」と呼ぶほどに激しい感情を露わにしている。彼らは割礼を強要し、イスラエル民族であることを誇りとしたのであろう。」(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』p.91以下)

 「ガラテア人への手紙」

 この手紙も聖パウロの真筆とされています。執筆時期は54~55年頃と思われます。ガラテヤは、現在のトルコの首都アンカラを中心とする地域のことで、古くからの交通の要所です。聖フィリポもトルコで刑死していますし、トルコ(小アジア)には古くから布教が行われていたことでしょう。

 激しい警告とともに始まります。

 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、「異なった福音」に落ちていくことに驚いています。
それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけです。私たちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるべきです。私たちが前に言っておいたように、もう一度言います。
もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人は呪われるべきです。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」1:6~9)

 そして、ペテロ(ケファ)について、3つのことが語られます。第一に、ヤコブとペテロが、聖パウロがキリスト教に改宗したことを聞き神を褒めたたえたこと。

 彼らは、「かつて自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えている」と聞き、わたしのことで、神をほめたたえました。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」1:23~24)

 第二に、聖パウロは、ペテロたちと異なり異邦人伝道のためにあり、ユダヤの律法が異邦人には不要であること。このことは、エルサレム会議の場を通じて、ヤコブ・ペテロとも長年共有してきた理解であること。

 わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を強制されませんでした。忍び込んできた偽使徒らによってすら強制されませんでした。
かの「主だった人たち」からも何も強制されませんでした。もっとも、彼らが主だった人たちであるかはどうでもいい話ですが・・・神は人を分け隔てなさらないのですから。
むしろ、ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだねられていることが認められました。
さらにヤコブとケファとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのです。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」2:3~9)

第三に、ペテロが信用できない人物であること。

 ケファがアンティオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼を非難しました。
「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しない。異邦人のように生活している。なのに、どうして異邦人にユダヤ人の律法を強制しようとするのか。」
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」2:11~14)

基本的にヘブライオイを否定する時には、その律法優位の考え方を否定する聖パウロですが、ペテロに対してだけは、言行不一致や、神に対する不誠実を非難しています。この視点から見ると、

冒頭に出てくる次の言葉は、ペテロを念頭においていることが分かります。イエスに親しく仕えたにも拘わらず、神ではなく人間関係に支配され右往左往している、と。

 わたしは今、人に喜ばれようとしているのでしょうか、それとも、神に喜ばれようとしているのでしょうか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。
もし、人の歓心を買おうとしているのであれば、わたしはキリストの僕ではありません。兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておきます。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではありません。これは人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によったものなのです。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」1:10~12)

 その後、律法と福音の優劣・関係性について嘆きと共に激烈な口調で語られていき、次のように結論づけます。

 このパウロがあなたがたに言います。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになります。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言いましょう。そういう人たちは、律法の全部を行う義務を負うことになります。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっており、恵みから落ちているのです。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいています。イエス・キリストにあっては、割礼があってもなくても問題ではなく、尊いのは愛によって働く信仰だけであるのです。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」5:2~6)

 

兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。

(パウロ「ガラテヤ人への手紙」6:1)

 「こうした激烈な言葉は、何の背景もなしに虚空に向かって語られているのではなく、むしろ具体的にガラテヤの人々の背後にいる者たちに向けられている。・・・彼ら侵入者は、割礼を受けてユダヤ人になり、律法を遵守しなければ、人は決して救われない、と主張するヘブライストたちであった。すなわち、自らの力を頼み、目に見える保証に基づく「強い」生き方を主張する者たちである。」(青野太潮『パウロ 十字架の使徒』p.85以下)

 「ローマ人への手紙」

 この手紙も聖パウロの真筆とされています。執筆時期は55~56年頃と思われます。コリントスで書かれました。後述の通り、この頃にペテロがローマに拠点を定め布教を開始したと思われます。この手紙は、言行不一致を批判する内容から、ペテロに宛てた手紙としてみるべきでしょう。

 もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇とし、御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、なぜ、人を教えて自分を教えないのか。
盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。・・・
生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを裁くのである。というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。
(パウロ「ローマ人への手紙」2:17~29)

聖パウロの逮捕

 ローマ人への手紙を書きあげてからほどない56年頃、聖パウロは、各地の教会から集めた献金を携えてエルサレム教会を訪問し、そこで官憲によって逮捕されます(使徒行伝21:17~36、ロマ書15:25~28)。長老たちがみな集まっている機会であるにも関わらず、逮捕されたのは聖パウロだけです。また、義人ヤコブ側は、釈放に向けた動きを取りませんでした。対立している当事者ですし、聖パウロは義人ヤコブ側の主張を覆してばかりいるため、当然の結果ともいえるでしょう。

 想像をたくましくするならば、聖パウロが、献金を渡すついでに、義人ヤコブに対して、間違った布教を行い各地の教会を混乱させていることについて苦言を呈し、抗議したのかも知れません。ユダヤ人であることを捨てたサウルが、聖パウロとなって義人ヤコブを批判することに義憤を覚えたユダヤ人が集結しだしたので、当局とつながる義人ヤコブの側としては、それを看過できず、聖パウロを通報して、厄介ごとを免れようとしたのかも知れません。

 彼らの言うとおりにしないでください。彼らのうち40名以上の者が待ち伏せしています。彼らは、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い合っています。
(使徒行伝23:21)

 対立の顛末

 紀元50年代半ばに各所で展開された正統派キリスト教を巡る争いは、聖パウロ等の活躍もあり、また、ユダヤの(つまり、モーセの)律法は遵守しづらく各所で敬遠された結果、ヘブライオイの主張は完全には受け止められず、一旦、ヘレニスタイ側の主張が優勢なまま終わります。

 そして、聖パウロが61年に、義人ヤコブが62年に、ペテロが67年頃にそれぞれ刑死した上、66年から70年にわたってユダヤ戦争が起き(ローマ帝国の属州としての)ユダヤ社会が壊滅的になったことで、キリスト教がユダヤ教から独立していき、人の入れ替わりもあって、ヘブライオイとヘレニスタイの対立の意味がなくなってしまいました。

 しかし、40年代後半から顕在化し60年前後まで長期間続いたヘブライオイとヘレニスタイの闘いは、キリスト教の教義の成立に当たって多大な影響を及ぼしました。

 先ず、律法と福音の関係が整理され、福音が律法に優先することになりました。ユダヤ教の律法を規定した預言者モーセの地位が、新約聖書では低くなっていることに留意しましょう。

 律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。
では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。・・・信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」3:18~28)
(参考:パウロ「ローマ人への手紙」2:12~15など)

 とはいえ、ヘブライオイ的な秩序維持の概念は、ヘレニスタイ側にあっても重視されるようになりました。両社の主張の折衷案がキリスト教の教義として広まる素地となり、これはまた、(言うことを聞かない者に対する制裁としての)終末思想が復活する素地を整えました。

 他方、秩序維持を重視しないヘレニスタイの主張は、後述の通り、秩序維持を指向する一派(後の正統派キリスト教)と、指向しない一派(いわゆるグノーシス主義)に分離していきます。

 次に、ヘブライオイがヘレニスタイの拠点に出向いたことで、Q伝承集団の主張が各地に広まるきっかけにもなりました。

 そして、聖パウロに敵対していた義人ヤコブは、イエスの後継者としての地位を聖書上では認められず、各福音書に記載されることがなくなりました。

 他方で、比較的に長生きし、各地で顔を知られていたペテロが、(イエスの後継者の不在を埋める形で)結果的に復活し、名声を高め、独自の折衷的教義(後の正統派キリスト教)を広めるきっかけにもなりました。

 本当の福音とは何か?を検討していくにあたっては、こういった影響を考慮に入れる必要があると思われます。




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