フィリポやステファノなどは大きく「ヘレニスタイ」(ギリシア系)と言われます。対立する一派は「ヘブライオイ」(ヘブライ系)と言われます。
イエス没後、この対立が先鋭化していき、それぞれの教義が発展します。新約聖書27文書にも影響を与えていきます。
まずは大きく違いを把握してみましょう。
ヘブライオイの中心は、義人ヤコブです。当初はペテロが中心になってイエス教団を引き継ぎましたが、早々に聖フィリポ等と激しく対立し、分裂させてしまいます。
イエスの後継者であるイエスの弟 義人ヤコブに教団が引き継がれ、ユダヤ社会からも教団として評価されるようになっていきます。正統派のユダヤ人として生まれ育った義人ヤコブは、兄イエスの関係がなければ教団を引き継ぐことはなかったでしょう。そのため、ヘブライオイ系の文書は、ほとんどがユダヤ教の教えを引き継ぐものになります。
他方、ヘレニスタイの中心は、聖フィリポです。聖パウロなどに受け継がれました。神殿批判の意味を探る中で贖罪の十字架という概念を生み出し、世界宗教としてのキリスト教の礎を築きました。
しかし、何故対立したのでしょうか。
ユダヤ教の異教徒への禁忌
もともとユダヤ教は、偶像崇拝・星辰崇拝を、不道徳な行為、重大な罪として非難・弾劾してきました。(旧約聖書の出エジプト記が根拠です。その後、タルムードの中にも、ネズィキーンの巻(アヴォダー・ザラー篇)において、偶像崇拝・星辰崇拝を否定・厳禁するための文書がまとめられています。)そのため、ギリシア系の人々に対しても禁忌の意識をもち、これが転じて差別意識や敵意を抱きがちになったものと考えられます。
イエスは、こういった観念を打ち破った人物でした。ヘレニスタイは、だからこそイエスに従っていました。しかし、イエスの死後、ヘブライオイとヘレニスタイは、なんらかのきっかけのために相互に反発しあい、やがて対立へと一気に発展していきました。その「きっかけ」が分かれば、いろいろなものが見えてくるはずです。
対立のきっかけとは?
前回(2-C)を鑑みると、イエスの死に関する行き違いが、普段からの不満を爆発させたのではないか、と思われます。
信徒分裂におけるヘレニスタイ
さて、それぞれの考え方を見てみましょう。
まずヘレニスタイの主張は、使徒行伝にあるステファノの殉教(使徒行伝6:8~7:60)によく現れているでしょう。神殿との対決に同席できなかったメンバーは、師やユダの無念を晴らすべく、エルサレムにとどまってイエスの教えを広めようとします。しかし、イエスのことを神と直接交信できる「人の子」と主張したため、地元の人々の逆鱗に触れ、ステファノは殺されてしまいます。
この結果、ヘレニスタイたちは、エルサレムから追放され、または自ら山を下りていきます。そして、できるだけ大きな都市で布教を図りました。聖フィリポ・聖トマスが行政・経済の中心地であるカイサリアに行ったことは、先述の通りです。
アンティオキア(シリア)やアレクサンドリア(エジプト)にも、キリスト教のコミュニティをつくり、発展させていきました。特にアンティオケには、7人の助祭の一人「アンティオケの改宗者ニコラオ」が地元に戻って信仰を広めたように思われます。
尚、バルナバは、アンティオキア教会の大立者です。聖パウロに近い立場、つまり、エルサレムとは異なる立場の人物です。従い、ここにあるバルナバがエルサレムから派遣されたという記載は、事実とは異なると判断できます。この箇所は、後述の通り、紀元50年代に、エルサレムに残ったヘブライオイが、ヘレニスタイによる布教の成果を一網打尽に取り込むために後代になって主張しだしたものと考えられます。(聖フィリポの項で前述した通り、この時期を描く聖書の記載には、エルサレム側やペテロの地位を向上させるための脚色が施されているものと考えられます。)
信徒分裂におけるヘブライオイ
他方、ペテロたち(ヘブライオイ)は、どうしていたでしょう。エルサレムにとどまります。
ステファノ事件があった後にエルサレムにとどまるということは、正統派ユダヤ教徒として暮らすことを決めた、ということでもあります。(そうでなければ、ステファノ同様に処刑されるか、またはエルサレムから追放されたことでしょう。)その意味で、義人ヤコブやペテロにとっては、イエスの行為やイエス教団の歴史は隠したい過去(黒歴史)だったことでしょう。
このことが垣間見える記載が聖書に遺されています。
まずは、ペテロたちが捉えられた場面。深く反省し、「イエスの教えは棄てる」と宣言をしていた(または、させられていた)ことが推察されます。
次に、聖パウロがペテロのところを訪問に来る場面。(ペテロは、聖パウロからは「ケファ」と呼ばれています。)
これは、おおよそ西暦36年頃(イエスの磔刑から6年後)のことと言われています。聖パウロがエルサレムを訪問し、2週間以上ペテロのところにいたにもかかわらず、ヨハネをはじめとするイエスの他の弟子には会わなかったというものです。
彼らは、袂を分かったヘレニスタイたちによって、イエス教団の教えが復活し勢力を伸ばしていくことに危機意識を覚えたことでしょう。エルサレム市内において問題を起こさないよう、異分子である聖パウロに対しては、(義人ヤコブとペテロの2人以外には)「会わせない」という方針で臨んだものと思われます。
資産家夫妻殺害事件
とはいえ、エルサレムでも事件が起きます。
イエス教団への入会希望のある資産家の夫婦を、ペテロが殺してしまい、当局に逮捕されてしまうのです。資産家夫婦に対するペテロの発言は、寄付金が少ないことをもって神への冒涜とするもので、ただの言いがかりに過ぎません。殺された資産家アナニヤにしても、善意で寄付しているのに、「もっと寄こせ」と言われ殺されてしまうのですから、納得いかなかったことでしょう。
なお、この事件に対しては、(すべてのものが共有財産として扱われる)原始共有制の中に、夫婦という別ロジックの関係性を持ち込もうとしたために起きた不幸な事故(または資産家夫婦に問題があった事象)という説明がされる場合もあります。しかし、甚だ疑問です。
先ず、ペテロ自身も結婚しており、イエスの弟子になる前からローマで処刑されるまでの長い間妻を帯同し、子どもももうけています。そのため、夫婦だから入信できないということは、そもそもあり得ません。また、資産家夫婦が一部の資金を手元に残し教団にすぐには差し出さなかったから、という説明がされることもありますが、資産の分配をどのように行うかは財産の保有者の権利です。財産を全額出さない者を裏切り者として処刑するのは強盗の論理であり正当化のしようはありません。
このような行為は、やはり聖アンデレや聖フィリポが庶務を仕切っていたら起きない性質のものだと思われます。つまり、この事件は、聖アンデレや聖フィリポが、ペテロとは袂を分かった後に起きたことをよく示しています。
当局が、実行犯の首領とされたペテロを逮捕し、むち打ち刑に処したのは賢明だったと言えるでしょう。そして、おそらくこの事件をきっかけにペテロはエルサレムを放逐されたものと思われます。
4世紀の歴史家エピファニウスによれば、ヤコブは、エルサレム教会の初代教会長を紀元38年から亡くなるまで(紀元62年まで)、約25年間つとめたとされています。そうすると、この事件が起きたのは聖パウロがペテロを訪問した2年ほど後と推測されます。
エルサレム教団の長(イエスを継ぐもの)
ちなみに、ペテロがイエスの後継者と考えているので、このような推測になりますが、本当はペテロはエルサレム教団の長になったことはないとも考えることができます。先に進む前に、この点を確認しておきましょう。
まず、イエスは、自分になにかあれば弟のヤコブを頼るよう遺言しています。
次に、エウセビオスは、次のように書き残しています。
注意すべきは、この15代の中に、ペテロは入っていない、ということです。(もし第2代のシメオンがペテロのことであったら、そのような記載となっていたことでしょう。)つまり、ペテロは、イエスの死後、ずっと義人ヤコブの監督下にあったというのが歴史的には正しいのでしょう。
Q伝承集団
さて、エルサレムに残ったイエス教団の元メンバーは、義人ヤコブの下で、正統派のユダヤ教徒となるために活動していたことでしょう。
ペテロを含め、この時に義人ヤコブの下にいた元イエス教団のメンバーが、おそらくQ伝承集団になったのだろうと思われます。マタイ福音書とルカ福音書のみに共通しているエピソード(いわゆるQ資料、Quelle)を伝えた集団です。根っからの正統派ユダヤ人として生まれ育った義人ヤコブと、イエス教団にいたメンバーとでは律法の範囲と重要性に対する認識が大きく異なっていたため、義人ヤコブのようなファリサイ派的な人物には恨みつらみを募らせたことでしょう。
この特徴を検討してみましょう。
大ヤコブの刑死
エルサレムのスタンスが試される事件が続きます。12弟子の一人でスペインに行っていたヤコブ(ゼベダイの子のヤコブ)がエルサレムに帰ってきたのです。当時(紀元44年頃)の支配者であるヘロデ・アグリッパ1世によって大ヤコブは捕らえられ、殉教しています。
大ヤコブは、イエスの教えしか知らず、その後の義人ヤコブの方針を知らなかったはずです。義人ヤコブやヨハネたちは、自らがトラブルに巻き込まれないよう、大ヤコブを見殺しにしたことでしょう。
エルサレム会議
ヘレニスタイは、エルサレムの軛がないことから、アンティオキアやカイサリアなどの大都市で、イエスの教えを積極的に広めていきました。しかし、彼らはユダヤ教の律法(特に割礼や食物上の禁忌)に関心がなく強制もしないため、ヘブライオイ(特に義人ヤコブ)からみれば、許し難い存在であったに違いありません。ヘブライオイたちは、ヘレニスタイの拠点を回って、律法の重視を説くようになります。
ここで混乱が生じるようになります。
こうして行われたエルサレム会議(紀元49年)でしたが、関係者の間に意見が一致することはなく、「当面は現状維持」で終わったようです。しかしこの後、ヘブライオイが、体制を整えた上で「イエスの弟」の権威の下に、ヘレニスタイの拠点に人を派遣し、ヘレニスタイたちの教えを徹底的に批判・非難するようになります。
ヘブライオイのなかで柱とされていたのは、義人ヤコブと、ペテロ、ヨハネです。
例えば、ペテロ(ケファ)とヨハネは、聖フィリポのいるカイサリアに向かい、聖フィリポの権威や、弟子シモンのことを否定・中傷して回りました。
この転換の理由は、よく分かりません。可能性の議論としてあげるのであれば、ローマ帝国のユダヤ政策の変化かも知れません。皇帝クラウディウス(在位41~54年)は、即位した時点で50歳を超えており、博識と善意をもって政治に当たったと言われています。解放奴隷を側近とし、皇帝に権力を集中させ、ある種の官僚制の構築に邁進しました。彼はユダヤとアレクサンドリアという属州の騒乱を手際よく処理した治世者としても高い評価を受けています。
上述のエルサレム会議と同じ49年のこととされています。キリスト教が当初下層民を中心に広まったことを鑑みると、彼らが暴れる根拠をつくったのが、「神の前での人間の平等」を唱えるヘレニスタイたちの主張であることは論を待たないでしょう。ヘブライオイの活動がエルサレム外にも本格的に展開した背景には、ヘレニスタイたちの主張(ひいては下層民の暴動)を抑えるために、当局が義人ヤコブを利用し、ヘブライオイ経由でイエスの教えへの信者をすべて監視下に置こうとしたのかも知れません。
聖パウロの受難
この被害にあった中には、聖パウロもいます。聖パウロは、53~55年の2年ほどギリシア都市エフェソスに、滞在していますが、この時に事件が起きます。ちなみにエフェソスは、アルテミスの大神殿という世界の七不思議や世界遺産にも選ばれた建築のある古代都市です。生パウロの活躍した500年ほど前には、古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスが活躍した場所でもあります。
まず、ギリシアの港湾都市コリントスにある教会の中で、派閥争いが起きたというのです。聖パウロはここで「コリント人への第一の手紙」(54年頃)を書きます。
この頃はまだ、手紙をみて反省してもらえばいいという程度の認識だったようです。しかし、事態は悪化していきます。他の手紙をみていきましょう。
「コリント人への第2の手紙」
この手紙は、一部(6:14~7:1)に加筆があるものの、聖パウロの真筆とされ、5つの手紙の集合体と考えられています。
この点についての解説は数多く出ていますが、以下を引用しましょう。
「フィリピ人への手紙」
この手紙も、聖パウロの真筆とされ、3つの手紙の集合体と考えられています。フィリピというのはギリシャ北部にあったマケドニア王国の王フィリッポス2世(アレクサンダー大王の父親)にちなんで命名されたギリシア都市で、もともとはフェニキア人の植民都市という長い歴史をほこる都市です。
ここでもコリントスと同じようなことが生じたようです。
この「犬ども」という表現は、「この犬どもは強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかり」(イザヤ書56:11)を踏まえ、「神を畏れぬ者」として非難するための表現と思われます。
「ガラテア人への手紙」
この手紙も聖パウロの真筆とされています。執筆時期は54~55年頃と思われます。ガラテヤは、現在のトルコの首都アンカラを中心とする地域のことで、古くからの交通の要所です。聖フィリポもトルコで刑死していますし、トルコ(小アジア)には古くから布教が行われていたことでしょう。
激しい警告とともに始まります。
そして、ペテロ(ケファ)について、3つのことが語られます。第一に、ヤコブとペテロが、聖パウロがキリスト教に改宗したことを聞き神を褒めたたえたこと。
第二に、聖パウロは、ペテロたちと異なり異邦人伝道のためにあり、ユダヤの律法が異邦人には不要であること。このことは、エルサレム会議の場を通じて、ヤコブ・ペテロとも長年共有してきた理解であること。
第三に、ペテロが信用できない人物であること。
基本的にヘブライオイを否定する時には、その律法優位の考え方を否定する聖パウロですが、ペテロに対してだけは、言行不一致や、神に対する不誠実を非難しています。この視点から見ると、
冒頭に出てくる次の言葉は、ペテロを念頭においていることが分かります。イエスに親しく仕えたにも拘わらず、神ではなく人間関係に支配され右往左往している、と。
その後、律法と福音の優劣・関係性について嘆きと共に激烈な口調で語られていき、次のように結論づけます。
兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。
(パウロ「ガラテヤ人への手紙」6:1)
「ローマ人への手紙」
この手紙も聖パウロの真筆とされています。執筆時期は55~56年頃と思われます。コリントスで書かれました。後述の通り、この頃にペテロがローマに拠点を定め布教を開始したと思われます。この手紙は、言行不一致を批判する内容から、ペテロに宛てた手紙としてみるべきでしょう。
聖パウロの逮捕
ローマ人への手紙を書きあげてからほどない56年頃、聖パウロは、各地の教会から集めた献金を携えてエルサレム教会を訪問し、そこで官憲によって逮捕されます(使徒行伝21:17~36、ロマ書15:25~28)。長老たちがみな集まっている機会であるにも関わらず、逮捕されたのは聖パウロだけです。また、義人ヤコブ側は、釈放に向けた動きを取りませんでした。対立している当事者ですし、聖パウロは義人ヤコブ側の主張を覆してばかりいるため、当然の結果ともいえるでしょう。
想像をたくましくするならば、聖パウロが、献金を渡すついでに、義人ヤコブに対して、間違った布教を行い各地の教会を混乱させていることについて苦言を呈し、抗議したのかも知れません。ユダヤ人であることを捨てたサウルが、聖パウロとなって義人ヤコブを批判することに義憤を覚えたユダヤ人が集結しだしたので、当局とつながる義人ヤコブの側としては、それを看過できず、聖パウロを通報して、厄介ごとを免れようとしたのかも知れません。
対立の顛末
紀元50年代半ばに各所で展開された正統派キリスト教を巡る争いは、聖パウロ等の活躍もあり、また、ユダヤの(つまり、モーセの)律法は遵守しづらく各所で敬遠された結果、ヘブライオイの主張は完全には受け止められず、一旦、ヘレニスタイ側の主張が優勢なまま終わります。
そして、聖パウロが61年に、義人ヤコブが62年に、ペテロが67年頃にそれぞれ刑死した上、66年から70年にわたってユダヤ戦争が起き(ローマ帝国の属州としての)ユダヤ社会が壊滅的になったことで、キリスト教がユダヤ教から独立していき、人の入れ替わりもあって、ヘブライオイとヘレニスタイの対立の意味がなくなってしまいました。
しかし、40年代後半から顕在化し60年前後まで長期間続いたヘブライオイとヘレニスタイの闘いは、キリスト教の教義の成立に当たって多大な影響を及ぼしました。
先ず、律法と福音の関係が整理され、福音が律法に優先することになりました。ユダヤ教の律法を規定した預言者モーセの地位が、新約聖書では低くなっていることに留意しましょう。
とはいえ、ヘブライオイ的な秩序維持の概念は、ヘレニスタイ側にあっても重視されるようになりました。両社の主張の折衷案がキリスト教の教義として広まる素地となり、これはまた、(言うことを聞かない者に対する制裁としての)終末思想が復活する素地を整えました。
他方、秩序維持を重視しないヘレニスタイの主張は、後述の通り、秩序維持を指向する一派(後の正統派キリスト教)と、指向しない一派(いわゆるグノーシス主義)に分離していきます。
次に、ヘブライオイがヘレニスタイの拠点に出向いたことで、Q伝承集団の主張が各地に広まるきっかけにもなりました。
そして、聖パウロに敵対していた義人ヤコブは、イエスの後継者としての地位を聖書上では認められず、各福音書に記載されることがなくなりました。
他方で、比較的に長生きし、各地で顔を知られていたペテロが、(イエスの後継者の不在を埋める形で)結果的に復活し、名声を高め、独自の折衷的教義(後の正統派キリスト教)を広めるきっかけにもなりました。
本当の福音とは何か?を検討していくにあたっては、こういった影響を考慮に入れる必要があると思われます。