肩書きに喰われたくないのです。
広告業界は、職種の名前を再定義しながら進化していくべきだと思う。
そうじゃないと、職種の名前に、自分の可能性が束縛されてしまうよ。
という話。
広告業界には色々な肩書きがある。
コピーライター
CMプランナー
アートディレクター
明確に自分の専門(職域)が規定されていて、プロフェッショナルな感じがしなくもない。事実、一流の方々が持っているこれらのスキルは凄まじい。何度もその凄まじさを目の当たりにしてきたし、心から尊敬している。
でも最近、なんだか逆に、この肩書きに縛られて、仕事をしている人が増えているような気もする。もっと言うと、肩書きで、自らの仕事をつまらなくしている人が増えている感じ。立場が人を作るのであれば、職種もまた同じであろう。
話は変わるが、歴史的に見て、言葉の力、ビジュアルの力、映像の力、いずれも今が、最も強力で重要な時代だと思う。それはこれからさらに加速するだろう。
魅力的な映像は、一瞬で世界へ広がる。何百万人もの人が能動的に見る。
心を打つ文章、美しい写真、面白いグラフィック、いずれも同じだ。
人が素敵な映像に、言葉(ものがたり)に、ビジュアルに動くことは誰も否定できないだろう。
さて、私たちの仕事はなぜ今なお、コピーライターであり、CMプランナーであり、アートディレクターなんだろうか?
CMプランナーは、いち早く映像企画家になるべきだと思う(肩書きの名前を変えようという話ではない)。映像の力は凄まじい。これからますます重要になっていくだろう。もちろん15秒や30秒という極めて厳しい制限下で映像を制作する"CMプランナーの技術"は素晴らしい。でも、"映像"の可能性はそれより遥に大きい。映像に人が触れる場所はこれからさらに広がり、その競争はさらに厳しくなる。テレビ放送をベースにした映像技術も重要だが、それを超えた才能、技術がより求められていくに違いない。世の中のニーズが既に肩書きを超えてきている。
コピーライターもまた、キャッチコピーやボディーコピー、ショルダーなどと言っている前に、ソーシャルメディアで流通する文章、そのタイトルを書きまくったほうがいいのではないだろうか?
「おっ!」と思うタイトルで人は記事を読み、その記事は世界へ広がる(だからと言って安易な釣りタイトルが良いとは思っていないが)。
素晴らしい文章は、賞を獲ったコピーよりも遥に多くの人の目に触れ、心を打つ。そもそも、自分が書いたコピーを今、きちんと読んでくれている人が、何人いるだろう?自分の仕事も含め、日々不安になる。
アート・ディレクターは、そのわずか数秒で勝負がつくビジュアルの力をもっと多様に解放、展開できるだろう。流れるタイムラインで、人の目を止めるのはビジュアルしかない。それは今日において、15段の新聞広告よりも、駅前のポスターよりも刺激的で人の目に触れる瞬間かもしれない。スペース、常識、作り方、様々な創意工夫がこれから先もどんどん必要になる気がする。
こういう"当たり前の話"をすると、「そもそも本物のコピーライターというのは、コピーを書く人ではなく、言葉の力で社会やコミュニケーションを支えていく人。コピーライターという肩書きの安売りが、こういう問題を引き起こしたに過ぎない。」といった類の指摘を頂く。そのとおりだと思う。でも、そうした狭義の職種だとの錯覚をつくってしまったのも、またこの業界である。
本当にそれを変えたいのであれば、既得権者自らが、それを変える方法、評価、ルールなどをつくっていくしかないと思う。
人は肩書き(与えられた職域)によって、自分をつくる。
それは時に大きな武器(可能性)であり、時に大きな足かせ(損失)となる。プラスにもマイナスにも使える。だからこそ、定期的な見直しと、それを機能させるための見直しが大切だと思う。
もしかしたら組織を変えることよりも、こうしたソフトを変えることのほうが、大きな成果をうむのではないだろうか?
そして何より大切なことは、業界内を見ることではなく、世の中のニーズや可能性と常に対峙していくことだと思う。一番それが必要な仕事をしている我々が、そこから逃げることは許されないと思う。
最後に、広告業界にはこんな肩書きもある。
クリエーティブ・ディレクターとか、コミュケーション・デザイナーとか。
はっきりいって何をやっているかよくわからない。
なによりカタカナでうさん臭い。
そして共に、私の肩書きである。
まったくもって胡散臭い。
でもだからこそいいと思っている。
曖昧さもまた、使い手次第で武器になるから。
明確に職種を規定しないということは、常に、自分が何のプロかわからない、悩み続けることを定められる。
自分は何のプロで、何でお金を稼いでいるのか?誰がそこにニーズを感じてくれて、価値を見出してくれているのか?常に襲ってくるその「自分は何者なのか?」「何で稼いでいるのか?」の問いが、世の中との関わり(自分の存在価値)への飢えになり、自己成長の糧となる。
肩書きに喰われてはならない。
肩書きを喰い、より強く進化していくべきだ、最近そんなことをよく思うのでした。
岸勇希(2014年7月13日に書いた記事を一部改訂。)
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