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それ、殺される間際にも言えんのかい

最悪の時こそ最高、人生で起こることは全て最高で自分のためにある。

サイゼリヤ創業者・正垣泰彦

8月頭からせっせと進めていた案件が、9月ごろにボツになった。
うまくいけばコンテンツとともに収入も増えるストック型の事業だったのだが、収益化できない致命的な理由が見つかったのだ。

1ヶ月以上も作業してきたこともあり、ガッカリ感も大きい。
しかしそれがふと立ち止まるきっかけにもなった。

思えば2024年前半の私は、何もかも思いどおりにしようと必死だった気がする。
それは1月1日が、能登半島地震という、人間にはまったく思いどおりにできない出来事から始まったからかもしれない。

金沢に住む私はそれほどの被害はなかったものの、人生で体感したもっとも大きな揺れだった。

その後、おかげさまで通常どおりの生活を送れているものの、時折あの大きな揺れを思い出してゾッとする。

これまで以上に営業をかけ、バリバリ労働してきたのは「これまでどおりの生活ができることへの感謝」もあるが、それ以上に「天災に屈しない」「人生をコントロールしたい」という思いの表れだったといえそうだ。

しかし頑張っていたことの1つがダメになってようやく、「色々な流れに逆らってきたのではないか?」と思うようになった。

自分の考えこそが最善と考えて、行動しまくってその結果、本来なら自然にやってくるはずだった「何か」を逃してしまったように感じる。
幸運とかチャンスとか、そういうものだ。

神だとか高次元の存在だとかがいるとして、彼らには私の想像もつかないようなプランがある。
それなのに、その大きな計画を知らずに私はジタバタあがいているのではないか。

だから一度、自然に身を任せる。
それを思い出してみよう。

ただそう思った矢先に起こったのが、9月の能登豪雨である。

なんかもう神にすべてを委ねるって、それが最善って、結局本当に辛い思いをしていない人の戯言なんじゃなかろうか。

一瞬にして、手のひらクルーッである。

大切な誰かを失った時、それがベストだったと言われたら大暴れする自信がある。

もちろん、そういうつもりの言葉ではないことは分かっている。
悲しんでいる誰かを「これが最善なんだから納得しなよ」と追い詰める言葉でも、「これが最善ってこと?」とあざ笑うような言葉でもない。

「これが最善なんだから頑張ってみよう」と自分で自分を励ますための言葉だと、分かっている。

しかしこの言葉を胸に刻んで生きていく中、「これが最善だとしたら、どうあったとしても神の采配ごと許せない」と思うような出来事があったら。
その時、私はどうなってしまうのだろうか?

私はその時々で、神を信じたり信じなかったりする。
今は少し「信じない」寄りというか、「いるとしたらあんまりだよ」寄りだ。

何か嬉しい出来事があれば、「信じる」に傾くのだろう。
いい加減な距離感で神を愛することが許されていて良かった。

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