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生涯学習note2020.04/26

 今回は「21世紀の京浜兄弟者」のブックレットに収録されている私のインタビューに、加筆訂正したものをお届けします。ブックレット自体の級数が小さく、ルーペを使っても読めない、という声が大きかったので、最適なサイズにカスタマイズしてお読みください。ここ1週間でだいぶテキストを書く感覚が取り戻されてきました。近年5年ほどは原稿の依頼があっても全て断り、盆踊りのアップデートや実践的なまちづくりのオーガナイズに尽力していたのですが(その経緯や理由については、またこのnoteに書きます)、やはり人と会って話せないストレスがかなり強いようで、ツイッターの代わりになるようなドキュメントとして、文字数の制限なくこのnoteに書いてこうと思った次第です。
 このような状況で、夏のお祭りをはじめ、年内のイベントの予定がキャンセルになってしまいました。そのことによってテキストを書く時間も作れるようになりましたが、原稿料が発生するわけではありません。テキストは無料で公開しますが、一番下の「サポート」というところから、投げ銭が出来ますので(金額は自由に設定可能)、ご支援やフォローをよろしくお願いします。いずれ皆さんが楽しめるイベントに還元したいと思います。

岸野雄一インタビュー

■自主映画シーンから

──岸野さんは音楽活動の前に映画活動がありますね。

 自分はもともと小学生の頃から、興味の対象としては映画の方がウェイトが重かった、割く時間が長かったですね。高校では映研がなかったから美術部の中に映研を作ろうっつって、美術部の中で予算を貰ったりしてた。予算って取れるんだ!と思った(笑)。友達を生徒会長に立候補させて、応援演説までやって。そいつに映研を認めさせた。今では考えられないくらい政治的な動きですね。その時に色々と理解してしまって、かえって成人してからは、こういう政治的な動き方は避けるようになってしまいましたね。高校生が映画を撮影するには人出が必要なんだけど、うちは男子校だったので、校外の女子と知り合う機会ができる!っつって、結構クラスのやつが手伝ってくれてた。モテない軍団が。しつこくクラスの奴が電話をかけまくったおかげで、キャストの女の子が撮影途中で来なくなってしまい配役が変わったりとか(笑)。こういうことが起きるんだなーっていうのが知れてよかったな。ちょっとした事で、たいていはマンガみたいな下世話な事で、積み上げたものがなし崩し的に台無しになってしまう、それに対しては笑うしかない、という感覚を養ったですね。
とにかく映画はうまくいかなかったよ。高校生がやることだからね。撮ったのはアラン・ロブ=グリエの『ニューヨーク革命計画』って小説があって、それを映画化しようとしたが、完成できなかったっていうのがもとになってる。だいたい高校生が小難しいセリフを喋ったって、サマにならないんですよ。その未完の作品を、再編集したり再撮影したりして、ともかく一本の作品に仕上げた。原作の原題を翻訳して「おまけのいちにち」としたのだと思う、ロブグリエの他の作品の原題かもしれない。このタイトルは、その後、大槻ケンジ君がアルバムのタイトルに使っていたね。彼とはナゴムのレーベルメイトだけれども、やはり高校生の時は映画少年で、自分の関わっていた映画サークルでもよく見かけたね。ケラくんはまた別な流れで、高校生でありながら「喜劇映画研究会」なる団体を作って、恵比寿のウェンディーズの上にあったスペース50という自主映画専門の小屋で上映会などやっていた。自分もその場所は使っていたので、チラシはよく入手していた。ともあれ、その自作の8ミリ作品を「ぴあフィルムフェスティバル」に応募したら、松本俊夫さんの推薦で入選した。それが縁でぴあの映写技師の仕事をさせてもらうことになった。例えば「寺山修司さんが夜1時から来られますので、試写室で見られるようにしといてください」と言われたら準備しておく。で、3時になっても4時になっても来ない、朝6時くらいになって来るとか……鍛えられたね(笑)。当時のぴあフィルムフェスティバルの審査委員は、大島渚さん、大林宣彦さん、松田政夫さんなど錚々たる面子だったので、日々とても緊張感がありましたね。そんな中で、お茶を出すタイミングで、講評ノートをそっと見たり。すると、自分にとっては乱暴な編集に見えたある応募作品の評価が、「定型をよく知っているので壊し方に自由さを感じた」とか書いてあるわけですよ。そうすると夜中に一人になった時に観直してみて研究したり。試写や審査の過程のなかで、彼らがふと漏らす本音のやりとりもとても勉強になりました。口論が始まったりね。何気なく「そろそろ映写を始めてもよろしいでしょうか?」という形で仲裁に入ったり。今にして思うと、18歳の小僧が、よくやりましたよ。

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※気になってかつての職場、ぴあの試写室(神保町猿楽町)に行ってみたら、なんとまだ現存していた。ここの二階で働いていました。

──当時は学生による自主映画が盛り上がっていた時期です。

 同じくらいの時期に「しがらみ学園」っていう8mm映画を黒沢清が撮って、突出してすごい才能を感じて。蓮實重彦ゼミがあった立教大学にはSPPって映研があったんだけど、彼はその中のパロディアス・ユニティってサークルにいた。そこは万田邦敏、浅野秀二、塩田明彦、青山真治らの、その後に商業映画を手がける人たも属してて、青山くんは僕と同世代。
少し時間がさかのぼるけど、今関あきよし監督や手塚眞監督らが活動していた、ムービーメイト100%っていうグループがあって、そこにもよく出入りしていた。犬堂一心監督ともその中で知り合って、スタッフで参加していましたね。あと成蹊高校のグループ。小中和哉くんとかだね。小中くんは不思議な人で、彼は中学・高校がずっと手塚くんと一緒だったのかな。同じグループで一緒に映画撮ってて。小中くんの作品は僕、何本か出てるよ。後ろのほうで用務員のおじさん役で掃除してるとか。で、小中くんは立教に進学したから、立教のパロディアス・ユニティとも交流が生まれて。言うなれば手塚ラインで俺と小中が立教とも関わりがあった。他にも早稲田の早大シネ研と、法政大学の映画サークルとか、意外と親密な感じで、実作を一緒に作るところと批評するところがかなりリンクした感じで盛り上がってた。
 当時の自主映画の見取り図としてはそんな感じかなあ。その辺の関係で、俺らがライブやる時に「ライブ見に来てくださいよー」みたいなことを電話で言ったりして、しょうがない見ておくか、みたいな感じになってね。だから当時のライブのお客さんは、音楽ファンよりも自主映画のネットワークのお客さんが多かった。それで東京タワーズを見て黒沢さんは賢崇くんを「ドレミファ娘の血は騒ぐ」で起用したんじゃないかな、面白い人がいるっつって。

──黒沢さんや手塚さんとは話が合ったわけですね。

 そうだね、当時から自作のミックステープを作っていろんな人に配っていたの。手塚くんはリアクションが良くて、こういうのもっと聞きたいというので、色々カセット録音してあげたりしてて、彼もそういうニューウェイヴ的なモノに興味を持って、ライブもたくさん来るようになった。それが「星くず兄弟の伝説」に結びついてるんじゃないかなって思う。手塚くんとしては、日本映画の俳優は俳優然としててあんまり面白くないと思ってたみたい。それに比べてインディーズのミュージシャンは、個性として尖ってる感じがして、こういう人を映画に使うと面白いことが起こるんじゃないか、と考えていたんじゃないかな。手塚くんはポップな面が強調して語られがちだけど、本当はすごく実験映画を観てて、僕とはその実験映画の話ができたというのが良かった。だけどなぜか親父さんの話は全然しなかったんだよなあ。漫画の話は出なかった。たまにトピックとして出てくるのは、映画に関連した話。「親父が惑星ソラリスを観てきて、どうだった?と聞くと『居ないはずの宇宙船に、小人がね、出てくるんですよ、クックックッ』と嬉しそうに笑った」、と言うんですよ。そこで手塚治虫の底知れぬ深層意識と、人間への諦念に触れた気がしてゾッとしたり。


■京浜兄弟社の溜まり場

──岸野さんの自宅部屋が京浜兄弟社の初期溜まり場になる経緯は。

 小学生時代は面白い奴としてクラスの人気者だったんだよね。だけど、中学・高校と私立の男子校で、そこでどんどん孤立していく印象があった(笑)。俺が内的世界に入っていったのもあるんだけど、面白さが効かないなって。唯一クシャミがウケてた。俺、クシャミの音が大きいんだけど、岸野のクシャミがキタ!みたいな感じで。そんで、そんな低いレベルのことで受けるは嫌だって、校内から校外に興味が移っていった。別の高校の子たちと8mm映画作ったり、ライブハウスへ行ったり、校外でアクティブになって、さらにそこで知り合った人たちと仲良くなっていったんです。そんな仲間たちとの交流が、かつての、小学校の時にウケてた感覚に近いので、なんか戻ってきた!って感じたんですね。居心地がよかった。
で、俺の部屋って離れみたいになってて、入口が家族のところとは別だったので、自由に出入りできるもんだから、みんなが入り浸るようになってきたの。来る人間は別にご近所さんじゃないわけ。わざわざなんで電車に乗って来んのかなーっていう。で、これ知ってる?ってレコードかけたり、ビデオ見せたりさ、そんなことしてたのね。託児所みたいな感じでみんな無言でうちの蔵書の漫画を読んでいたり。それが(加藤)賢崇くん、中嶋(勇二)くん、常盤(響)くんたち……。みんな泊まりに来てた。ミントリさん(岡村みどり)、石沢ミチキさん、皆川仁くん、蓮実(重臣)くんとか、ライブハウスで知ったラインと、あと自主映画のラインで来てた西村佳哲くん、吉村元希さんとか。常盤くんはうちから高校に通ったりしていた。

──その流れで、常盤さんが東京タワーズのファンクラブ「京浜兄弟社」を作るように。ちなみに岸野さんが“社長”って呼ばれ始めたのはなぜでしょう。

なんでだろうね? なんかこう、映画作ろうよとか、ミニコミ、今でいうとZineか、やろうよ、とか発案していたのが俺だから、どっかしらリーダー的なところがあったんだね。なので社長って呼ばれるようになったんじゃないかな。実質上はね、賢崇くんが一番作業はしてた。彼は事務フェチ。コピーとか紙を折ったりホチキス留めが異常に好き。だけど彼は作業に没頭するのが好きで、発案、という感じじゃないかもね。それでまあ京浜兄弟社ってファンクラブの名前がついて、「社」がついてたから、じゃあ社長は誰だ、岸野だ、っていうことだと思う。
当時のプリントゴッコという市販の安い印刷機、というかオモチャを使ってフライヤーを作っていた。チャチなオモチャだけど、多色刷りをすると独特な質感があってキレイだったんだ。しかし手作業で交代で何千枚も刷ったので、さすがに機械が壊れたね。寝ないで交代で印刷してて、女工哀史みたいだったよ。まずそこで、飲み会みたいなのを期待してた人たちはいなくなっていったね。

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──当時賢崇さんが住んでいた下北沢から押上は結構遠いですよね。

賢崇くん家に泊まるときは賢崇くん家に泊まる、押上泊まるときは押上泊まるんで、だから、今日はどっちに集まってんの?みたいな感じだった。岡崎(京子)の家も下北沢で、賢崇の家から徒歩1分だった。

──賢崇さん家でもみんなで音楽聴いたりみたいのはあったんですか。

あった。ただ、賢崇くん家は四畳半と台所と押入れでお風呂がなくて……まあ、うちもなかったんだけど、みんなで銭湯に行くのが楽しみだった。押上のほうが広かったから集まりやすかったんだね。楽器とか音も出せたし。あとコーヘイちゃんってわかる? 片山公平っていう謎の人物がいて、誰もいつ最初に会ったか覚えてないの。サーシャっていう名物ローディーの弟子筋のローディーマンなんだよね、職業は。だけどなぜか俺ら周辺に寄ってきてて、とくにトキちゃん(常盤響)に「トキちゃん、トキちゃん」って、子犬のようになついてて。けっこうキーマンなんだよ、コーヘイちゃんって。押上の俺の家にずっと住み着いてたかと思うと、賢崇のとこずっと住み着いたり。あとCSV時代には恵比寿で山口(優)がマンション借りてたの。そこを山口が出ることになったあとトキちゃんが引き継いで借りて、トキちゃんだけじゃお金を払いきれないんで、コーヘイちゃんがお金を肩代わりしてずっとそこ借りてて。恵比寿は渋谷に近いから、CSVで帰れなくなったりした時に、みんなで恵比寿まで歩いて行って泊まったりしてた。だからCSVに移ってからは、その恵比寿のマンションが押上的なことを担ってた感じですよ。コーヘイちゃんに関してはまた改めて話すよ。

──MOODMANが来るのはずっとあとですか?

MOODMANは高円寺にマニュエラが開店する一年くらい前かな。レコードショップを開店しようっていう時期に、高井(康生)くんが連れてきたんじゃないかな? 大学か高校の同級生でしょ、高井くんと坂本光三郎が。MOODMANは当時森下に住んでたのかな、意外と近かったから、うちで色々レコード聴いてたりしてたね。

──物理的な場と対面コミュニケーションで作られた京浜兄弟社はネット以前だから成り立った部分もあるのではないでしょうか。

その通り。もしネットがあったら、もう、みんなの関係が細い糸のままだったと思う。終電なくなって帰れなくなっちゃって、しょうがないからこのトピックについて話し続けるとか、そういうのって、堪え性がつくでしょ。で、この人物は追い詰められた時どうするかとかさ、そんなことも分かってくるじゃない。それを分かってることが信頼だからね。SNSなんて、鼻くそほじってる姿なんていくらでも隠せるでしょう? SNSだと絶対見えてこないことが、あの関係の中ではものすごい信頼関係として構築できた、っていうのが強い。とくにSNSだったらダメだったと思うのは、当時はみんな相手の作品に対する評価が厳しかった。かなり辛辣に、この歌詞のここがダメだよ、なんでこんなつまんない曲書くの、とか平気でヘラヘラ笑いながら言ってた。そんなのSNSでテキストベースだと絶対できないでしょ。なんか、お互い高めようって思ってたわけじゃないけど、作品作りの評価は厳しかった。それで、えっ?って来なくなった人も当然いた。そんなこと言われるのヤダみたいな感じで。仲よかったら作品もほめてくれるだろうって思ってたみたい。そんなわけ無いじゃんね。

──残ってる人だけ見ると、すごい才能が集まった場所だったんだなと感じるんですけど、そこまでにわりと振り落とされてる部分があるわけですか?

あったね。それは単に趣味の合う合わないの話じゃなくて。みんなオールラウンドに音楽聴いてるだけあって、始末が悪いっていうか、どんなジャンルの音楽の話もできたからね。仲良しグループみたく思われてるけど実は相当言い合ってる、かなりダイレクトに。あの純度と情熱は何だったのかよく分からない。しかもそれの規範はどこに求めてるのかも分からない(笑)。とても明確な美意識に基づく、良い音楽と悪い音楽を隔てる「規範」というものが共有されていたんだよ。幻想かも知れないけど。それが特殊だね。この京浜ボックスを聴いてね、今でもこれは聴けるものだってことを感じる人がいたとしたら、あの時、妄想かもしれないけど、みんなが共有してた規範というのは正しかったのではないかと思う。

──その場にいたのは全員ポップ・ミュージックを作ろうとしていた人たちですか?

難しいところだね。何をしてポップ・ミュージックと定義づけルカ?という問題になるよね。たとえば倉地くんなんかは、家に来て「録音させてくだしゃい!」「いいよー」とか言って録音手伝ってあげてたの。マイク立てて、ミックスもしてあげたし。一緒に音楽聴いて色々な話をして……でも彼は普通の意味でのポップ・ミュージックではない。だから、もしポップ・ミュージックっていうタームだけで動いてたら、もっとナイアガラ的なものになってたんじゃないかな、という気はする。ゲイリー芦屋はかなり末期に押上に来るようになったけど、最初に来た時に「僕は東京タワーズなんて認めてませんから」とか言ってたね。まるで山下達郎が大瀧さんに呼び出されて家に行った時に「僕ははっぴいえんどなんて認めてませんから」と言ったように。ゲイリーと60年台のポップス談義をしている横で、永田くんがジャーマン・プログレのレコードをカセットに録音していたり、と、当時の押上の状況はかなり混沌としていたんだけど、それが良かったんじゃないかないかな。今だとスポッティファイとかで、完全に好みの音楽だけチョイスして聴けるじゃない?だけど、自分の嗜好と全く違う音楽を聴く機会が、強制的に訪れて、かつ、それを「くーー!たまらん」とか言って喜んでる人の姿を目の当たりにして、そのジャンルの聞き方のガイドや知識が頭に入ってくるわけだから、他ジャンルから自分の嗜好を見直す、そしてどのように取り込んだり越境していくか?という大いなるヒントになったんじゃないかな。このような状況によって作られた音楽というのも、京浜兄弟社というのをひとつの音楽ジャンルとして捉えた場合、特徴の一つになっているんじゃないかな。


■デモテープ・バトルロイヤル

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※渋谷公園通りにあったCSV渋谷の今と昔

──80年代の京浜兄弟社の活動の中心地は、渋谷にあったニューウェイヴ喫茶店ナイロン100%と、1985年11月末にダイエー資本で開店した音と映像のショップCSV渋谷となります。

俺がちょうどぴあの映写技師を辞めて仕事を探してた時に、ナイロン100%でのライブのチラシ(前述)を、CSVの立ち上げスタッフが手に入れて、見に来たんだよね。CSVは楽器を売りたがってて、とはいってもギターを並べるのではなく、打ち込み、今で言うDTMみたいな、シンセやパソコン、ソフトウェアを売りたいと。で、コンスタンス・タワーズはライブでシンセしか使ってないから、それを観てちょうどいいと思ったんだろうね。それで面接して働くことになった。開店イベントには大川興業と一緒にライブで出たんだけど、開店初日の一番忙しい時に店員がライブで出るなんて、その時点でちょっとおかしいでしょ(笑)。そのタガの外れた感じがずっと続いて、楽しんで働けるようになったんだけど(笑)。
そしたらある日、山口がちょうど公園通りのミスタードーナツでコーヒーを飲んでたのね。山口とはそれ以前に、荻窪のワッツというライブハウスで「もすけさん」のライブを観ていただけなんだけど、で、俺が、ようよう久しぶり、とか言って、今この先の楽器屋で働いてるんだと言うと、へー見に行っていい?、で、俺もここで働こうかなあ、とか言って(笑)。じゃあ推薦するから働きなよ、つって山口が入って。あとはハイポジのもりばやしみほ、キング&カントリーのオカデン(岡田裕二)、トキちゃんとかも、遊びに来てるうちに、僕も企画部に入ることになりましたって、よくわかんない流れになってきて(笑)。遊びの延長でみんなCSVで働き出した。でもまあシンセの知識はあるから、客にオススメしてちゃんと商品は売るわけ。それで売り場の中にある機材や録音スタジオを使ってなんか面白いことやってくれって、スタジオを好きに使えることになって。だから面白いバンドを見つけたらそこで録らせたりしてた。

──その辺りからイベント「デモテープ・バトルロイヤル」が生まれると。

 みんなでCSVに音源を持ち寄って、聴き合って、批評するっていう。俺がそういう企画を出して、面白いからやろうって言ってくれたのが下田展久さん(元ムーンダンサー)。下田さんは本当に懐が広い人で、そんな人にCSVで上司として出会えたことで好きにやらせてもらえたんだよね。で、月一でデモテープを聴くっていうのは、ある人たちにとっては月一で締切日があるっていうすごく良い音楽制作の環境だったみたいで。それで一年くらいやってると、だいたいレギュラーが固定化して、みんなの趣味趣向も見えてきて、傾向ができてきた。集団ってこういうふうに組織化されるのか、みたいな。当然、男女間でこじれることが出てきたり、あの人にストーカーされてますとかね(笑)、そこもまた勉強になって面白かったね。
 来ていた人はみんな一癖二癖あって、集団に属せない感じの人とかも、ここなら受け入れてくれるみたいなのもあって、そこで音楽の傾向はまた広がった感じがする。もとからの京浜兄弟社のラインと、宮崎(貴士)くんとかゲイリー(芦屋)とか新規に来た人たちのライン。山口・常盤・俺が企画した「サンチェーンミュージックバトルロイヤル」ってコンテストに応募してきた倉地(久美夫)くんや、まだ大学生だったテイ・トウワくん、菊地(成孔)・今堀(恒雄)、神戸ちゃんとかアートコアファンクのライン。すごく人間関係が広がって、それの集大成が『誓い空しく』に結実していったんだな。

──CSV閉店時にはもう岸野さんたちはいなかったようですね。

いなかった。どっちかっていうと好き放題やってた俺らのケツを、下田さんがもう大人として拭けなくなってしまったというところがあるんだよ。下田さんにはすごく悪いことをしてしまったなあ。でもその後、下田さんとの関係は続いてて。下田さんはCSV閉店後にTOAっていう音響会社に入ったんだよね。それで本郷にあったTOAでデモテープを聞き合う会は続いた。「デモテープ・バトルロイヤル」って名前はCSVに帰属するから「デモテープ・ギルド」っていう名前にしてくれって言われてね。
でも月一でなんのお金も貰わないで続けていくのが、さすがに俺もちょっと大変になっちゃって。もう尻すぼみで。下田さんはその後に神戸のジーベックっていう場所に行ってブライアン・イーノを招聘したり、神戸の実験シーンの名物オーガナイザーみたいになって、ジーベックでデモテープギルドの関西編をやったりしていた。東京のデモテープ・ギルドは尻すぼみで無くなっちゃったね。下田さんは今は神戸でCAPっていうスペースをやってる。ヒゲの未亡人の公演で神戸に行った時に、久しぶりにお会いして、昔話ができました。

■テクノ恩返し

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──80年代の京浜兄弟社のメジャーな仕事に『キーボードスペシャル』で連載してた「テクノ恩返し」があります。

 山口が『キーボードスペシャル』の連載の仕事を持ってきて、俺・常盤・山口・松前の4人で“寿博士”ってペンネームでやろうって。俺の変名ではないの、4人のペンネームなんだよね。あの連載は、いわゆるテクノ・ミュージックが興る前に、その前史となるものを音楽史の中から抽出して解説していく、というものだった。毎回、トピックを決めて、トッド・ラングレンの回とかジャーマン・プログレの回とか、毎月8ページの連載で、全12回やった。で、俺に関して言うとね、小学校の時から作文は高評価だったの。だけど最後まで書ききれないのよ、まとめる力がないから。だから俺はとにかく書き散らかすわけ。当時ワープロもないから原稿用紙にワーッと書いて、これをまとめてって山口に頼んだら、書いてある内容を活かしつつ、ピシっと最後までまとめてくれたんだよ、最初の一回目から。それにかなり感動して、すごい!と思って。それで俺はどっかでまとめる力をつけたほうがいいなって思ったんだよね。まとめる力さえクリアすれば色々なことが可能になるんだ、世界が拓けるんだって思って。それからは最後まで自分が書く回もあったし、部分的なパートだけ書く回もあったし。テキストを最後まで書けるようになったのはあの連載のおかげだと思う。でもあれを書いたのって22歳とかでしょ。編集部はよくそんなことさせてくれたよね。でも編集部でこっそりアンケート集計表を見たら、読者からの人気は1位だった。見せてくんないのよ、編集の人が、いい気になると思って。

──あの連載は、岸野家でみんなでワイワイ話してた研究結果の一部みたいな感じだったんでしょうか。

 そうだね。まだインターネットもない頃、22、23の若造たちの私物を寄り集めて、よくやったなって思う。とりあえずあの時点で、いわゆるテクノポップに至る前史をひとつまとめることができたと思う。ただ、あの連載に欠けてるのは、のちの“モンド”的な部分。当時そういうものも知ってたし聴いてたんだけど、体系化するまでには至らなかった。それと90年代以降のいわゆるテクノ専門学校系の“テクノ”、デトロイトとかに至る道筋を網羅してないっていうところがマイナス点かな。そこに接続できる何かがあればもうちょっと90年代に俺らが生き易かったかもしれない(笑)。実作ではそこを予見したものを作ってはいたんだけど、批評的に歴史を体系化することに至らなかった。まあ悔やんでもしょうがないし、あの時点でやることはやった。

■有限会社化

──京浜兄弟社を有限会社化した経緯は?

 その話の前に近年のネットレーベルの話からするんだけど、2010年頃からネットで無料で全部聞けるようにっていう世界的な潮流があったんだが、それが2年くらい前から、ネット上で急にマネタイズをどうするかっていう話に移行したんだよね。それは実は、単に当時積極的に作品を作ってた10代や20代前半の子が、大学卒業で就職しなくちゃいけなくなった、んでお金どうするかって話だったことに気づいて、みんな唖然としたっていうことがあって(笑)。もちろん、お金になるよりも評価を得る方に重きを置くっていう価値の変容もあったから、一概に「なーんだ」っていう話ではないんだけど。
 で、そんな前提があって、我々の中でも同じことが起こった。つまり我々は音楽好きで、黙ってても音楽作ってるんだけど、それをお金にするのはどうするの、っていう話になったの。せっかく音楽の才能があって、みんな黙ってでも作ってるんだから、音楽プロダクション化してお金を生んで暮らしていけるようにしようよって話になった。
 それとみんなレコード買ってるんだからレコード屋もやろうよ、って。ちょうど山口の大学時代の友達がマンションを持ってて、そこの店舗スペースが空くんで、そこを使ってスタジオとかレコードショップとかをやろうよっていう話を持ってきた。ちょうど『誓い空しく』も出たし、これをプロモーション・キットみたいにしてプレゼンして仕事を取ってくるようにしようと。それで有限会社化したんだよね。
で、俺のことをみんな、社長、社長って呼んでたから、必然的な流れで俺が代表取締役っていうことになった。そうなってくると責任も生じるわけで、レコードショップを開業するにも資金が必要なんで、うちの土地を担保に信用金庫から100万円借りて、そのお金で最初の買付けとか、什器を揃えたりとかしてレコードショップにしたわけ。それが「マニュアル・オブ・エラーズ」。

──マニュアル・オブ・エラーズの店頭に立ってたのはいつ頃までなんですか?

 経緯は省くけど、俺が退陣して伏黒(信治)くんが新社長になる会議があるまで。そこからもうあっさり「マニュアル・オブ・エラーズ」からは手を引きました。自分ではまったく意識してないけど、そこからたぶん人間不信に……(笑)。それで俺、お金が稼げなくなって、アップリンクで映写技師として働いたりしたんだ。そこでタケちゃん(中里丈人)と知り合ったりね。……90年代、なんか色々キツかったなあ。


■チクニと京浜的なるもの

──京浜兄弟社~マニュアル・オブ・エラーズの存在は、90年代の『モンド・ミュージック』ブームで前景化したように思えますが、モンドの前史として京浜兄弟社内で出回っていた“チクニ”について教えてください。

 音楽のどの部分を美点・美徳とするか、評価対象にするかで、それまで「良い」とされてる箇所じゃなくて、「ヒドい」とか「ダメだ」っていう部分も評価対象として俎上に上げられるんじゃないかってことを、東京タワーズの時から言ってたんだよ。なぜなら音楽においては、その部分でさえも魅力的に感じるから。ダメさとか、誤解が生じてる所とか、間違えてる所とか。EXPOのエラーとかもコンセプトとして、そういう辺りから派生してるんですよね。
 それは歌謡曲や特撮を取りあげたりすることとも関連があるんだよ。動機としては幻の名盤解放同盟と近いところがあるかも知れない。中古レコード屋で「こんなレコード誰が買うんだろう?」っていう盤と出会った時に「それを買うのは俺だ!」って気づいた時にすべてが始まったみたいな、根本(敬)さんや湯浅(学)さんがよく話すことと近しい部分があった。音楽の「なんでこんなことするのかわからない」っていう部分を、もし魅力的に感じてしまうんだとしたら、その理由があるはずだ、って。
 そんなんで「こんなヒドいアレンジのもの見つけた!」とか「こんなヒドい曲見つけた!」みたいなことを競い合う風潮があった。みんなレコード買ってきては聴き合っていた。そういうコンピテープを作ってたんだよね。で、「これを聴くのは地獄だ!地獄テープだ!」って、地獄テープってインデックスに書こうとしたら「獄」を「国」って書いちゃって(笑)、それでチクニ。『地国テープVol.1』とか、コピーしてみんなで聴いて、そこからそのジャンルのことはチクニって呼ぶようになった。「チクニの良いのがまたあった!」みたいな。それが「モンド」につながっていく。

──ヒドい、ダメ、というのが悪評価を意味しない価値観。

 それとは別に、本当につまらないダメも沢山ある。良いダメと悪いダメ。なんでだろう、ってことはよく思ってて、それとの差別化はよく考えた。みんなでよく話し合ったね。我々が漫画に特化して作ったミニコミ「なぞまんクラブ」もそうなんだよ。「なぞまんクラブ」でとにかく槍玉に上がってたのが石森章太郎。石森は謎がないんです。技術はあるんだけど、技術を描いてるだけで謎がないからダメだ、もっと漫画における謎を追求しよう、そこに魅力が生じてるのだと。
 だから90年代に、ひばり書房とかの恐怖マンガのストレンジな部分を誇張して評価されたことがあるけど、あれは笑いの対象にする感じだったでしょ。俺らは結構真面目に、こんな謎なことが生じるこの作家はどういった資質があるのかっていうのを読み解こうとしていたんだよね。そこから「なぞまんクラブ」という漫画研究部。賢崇くん、みんとりさん、あと足立(守正)くんとかが中心だった。あれもコンセプトとしては、京浜の音楽に対するアプローチと同じものを、漫画に援用していたと言える。

──チクニテープは何本あったんですか。

 4まであった気がする。チクニテープから派生して、トキちゃんは途中からカットアップを使うようになっていったね。そうだ、それで『日産』っていうビデオが作られたんだ。それはビデオのカットアップ。インクスティック六本木で紛失したんだけど、VJのハシリみたいな感じで、ライブのバックで流す映像を作ろうって、色んなCMやドラマをカットアップして『日産』っていうビデオを作った。それもカットアップブームに影響を与えてる。トキちゃんが最終的にまとめていたけど、結構みんなであーだこーだ言いながら作ってたね。ああいうのも、なんというか、この映像の次はこれだよねって共通する感覚があるんだよね。飛躍の度合いというか。どこまで飛べるかという飛距離の問題ではなく、絶妙な距離感。それが音にもビジュアルに関しても共通であるから、そこをちゃんと解読できれば京浜テイストというものが言語化できるんだと思う。
 完全なカオスじゃないんだよ。何らかの秩序、美学があって、コントロールしてるの。そこがいわゆるスカムとかと違うところだと思うんだけど。だから、無茶苦茶をやってるとか、変なことをしてるとか、あと、嫌な気分に人をさせようとしてるとかではないんだよ。飛躍するものを並置することによって、あるエモーションを喚起しようとしてるところがある。その飛躍に多様性というか、独自のポップな感覚がある。それが何かというのは、いまだに言い当てられないんだけど。

──ちなみに『日産』の名前の由来は?

わかんない。ただ単に日産ってラベルに書いたから、そうなった(笑)。

──チクニ=モンドと考えていいでしょうか?

 モンド自体も誤解されてる面が多いし、もとからあった京浜的なモンド観っていうのは、ちょっと別のものかもしれないね。なぞまんクラブ、EXPOのエラーシステムみたいなものに通底する……もとを辿れば東京タワーズでやってたことが本当のモンド観なのかもしれない。そのモンドのもとになってるのがチクニ。モンドと切り離して考える概念としてチクニはいいかもね、今となっては。

■エラーの楽しみとリスニング・スタイル

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Snake Finger / manual of errors

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RASCAL REPORTERS/HAPPY ACCIDENTS


──エラーとかズレに対して向き合ってみようという意識は、京浜兄弟社が共有してるコアだと思います。その発展として「マニュアル・オブ・エラーズ」という名前にもなってるわけですよね。

 出典はスネークフィンガーのアルバム『マニュアル・オブ・エラーズ』で、あれが出た時はもう、カチッとハマった感じがした。レジデンツとかもきちんと聴いてたから、やっぱりそうだったのか!自分たちは正しかった、っていう。そんなようなことが起こったのが1988年、ラスカル・レポーターズっていうアメリカの二人組の『ハッピーアクシデンツ』。あのタイトルも正に京浜的っていうか、考えていたようなことだったから、やっぱり!と思って。あのアルバムは京浜内でかなり話題になった。彼らの初期のカセットのジャケットをよく見ると、カセットの中にカセットのインデックスがたくさん書かれてるんですよ、棚に並んでるのが。それを見るとバート・バカラックやソフトマシーン、フランク・ザッパ、ハットフィールド&ザ・ノースが並列になってるわけ。そういうのを同列に聴くっていうのは当時はなかったから、こいつらすごい趣味が合う!ってちょっと驚いた。マメに探していけば世界中そういう奴はいるんだなっていう。
今のコミュニティ別に分かれてるのとはまた違う感じで、当時はジャズを聴く人はジャズしか聴かないし、ロックの人はロックしか聴かないし、プログレ聴く人はバカラックは聴かなかったんですよ。でも今はプログレとバカラックを両方好きです、って全然アリでしょ。昔はナシだったの。そういうことだね。世界中であり得るんだ、自分たちだけでなく、という所にちょっと自信を持ったりしましたね。ラスカルレポーターズは松前さんが連絡取ったりして、コンピに入っている「野球王国」とかをすごく評価してくれた。ヴァン・ダイク・パークスとプログレが混ざったみたい、とか言って。


──それはヴァン・ダイクもプログレもどちらも知ってるから初めて評価できる。

 そうそう、だから別々の物語を接続できないと理解できないって所があって。それと同じ指摘を『モンド・ミュージック』が出た時に野々村文宏に言われた。俺が「with OBI」ていうタイトルで、あるレコードに別のオビを付けるのをやった時に、ロバート・ワイアットのジャケットにドカベンのオビを付けて提示したんだよね。それを彼はすごく美術的に評価して、これはドカベンの物語とロバート・ワイアットの物語の両方知ってないと理解できない、っていうことを言ってた。だから京浜兄弟社は、あまりにも多様な物語を接続しようとしてるので、その両方を知ってる人が部分集合としてものすごく限られるために評価されないんだ、っていう気もする。だけど現代はそういったものが一度シェイクされて、バカラックとプログレとザッパを同時に聴いていい、ってことになってきたでしょ。そういう部分では再発見される可能性はあるかもね。

──今は普遍的になってるリスニング・スタイルを普遍的じゃない時代からやってるってことですよね。

 そういうことだと思う。でも、それなりに努力はしてきてるよ。そういう聴き方がアリだってことを『スタジオボイス』や『モンド・ミュージック』の記事の中で提示してきたし、あと実作の中でも音楽的にそういったものの可能性を提示してきたから。努力はしたんだよね(笑)。実らなかったけど。いきなり本質的なところに到達してそれを提示してしまったりすると、冷めちゃうんだよね、たぶん。こういうことでしょ、って言われると、「いやあ…」って。もっと曖昧な雰囲気を楽しんでいたいから、そこまでズバッと言わないでくれって。やっぱり自分はエクストリーム、方法論が極端なんだ。だから色んな所に種を蒔いたっていうよりも、各自考えろ、って謎掛けをして消えてった。そういうことをやってきたね。

──京浜兄弟社周辺は演者自身がものすごくハードコアなリスナーだから、ヘタに感想が言えないのも大きいと思います。

 ああ、それはあるだろうね。とくに菊地成孔にも顕著だけど、彼の音楽は彼が語るほうが面白いでしょ? 絶対それが他人の評価を上回っちゃってるもんね。だから、彼に関して語りにくいって困難さが、もうそのまま京浜兄弟社にも言えるんじゃないかなあ。自分たちが語るほうが面白い。そういう問題点がある。

──一般的に思われているジャンルではない、自分たちの中での分類法、共通点みたいなものを、あらゆる対象から見つけてくるわけですよね。それが京浜兄弟社の批評であり、実践であり、本質だった……?

 まあ、この京浜ボックスを聴けばそういうものが浮かび上がって来る、かもしれないけど、あまり自分たちで言わないほうがいいのかもしれない、そういうことは(笑)。なにか通底するものがあると思った人は、ぜひぜひ言葉にして下さい。もうあと40年50年すると見えやすくなるのかもしれないし(笑)。インタビュー / ばるぼら

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勉強家(スタディスト)・公界往来人 東京藝術大学大学院 、立教大学現代心理学部、広島市立大学芸術学部・非常勤講師、美学校音楽学科・主任。第19回文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門大賞受賞。ヒゲの未亡人、ワッツタワーズ、スペースポンチ、流浪のDJ、ほか
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