民主主義のエクササイズnote版

この原稿は、2021年6月16日発売の、新しい問いを考える哲学カルチャーマガジン「ニューQ・Issue 03名付けようのない戦い号」に掲載されたものです。
発売前の雑誌の原稿全文を、書籍が発売される2021年6月4日から6月16日までnoteに無料で全文が読めるという実験を行いました。この実験に関するレポートは改めて書くことにします。おかげさまで様々な反響をいただきました。この試みに賛同して実現に向けてご対応くださいましたニューQ編集部に感謝いたします。
発売日以降に読みたい方、紙で持っておきたい方は「ニューQ」誌をご購入ください。自分の原稿以外でも、今読むべき良い記事が満載されています。
なおweb上でも継続して読みたいという声が大きかったので、有料でも購読できる様にしました。
なお、前回までのクラフトワークの論考は、書籍化の話が出ているため、今年中に一度、論文の形にしてから発表します。下書きは随時、最後のパラグラフを除いてnoteに発表していきます。

記事の内容としては、編集部の依頼に基づき、私がTwitterでチマチマとポストしてきたテキストを説明、補完するというものです。当初、1万字の依頼でしたが、結果、3万字くらい書いてしまい、削って削って1万8千字に落とし込みました。notoは字数無制限ですので、無削除版の掲載も考えましたが、ひとまずは本誌掲載時と同じ形で掲載します。

民主主義のエクササイズ  岸野雄一

 本誌編集者から今号の特集が「名付けようのない戦い」であり、それは私が自分のTwitterアカウント(@KishinoYUICHI)に書いた書き込みから取られていると知らされました。つきましては岸野さんにも何か書いていただきたい、という原稿依頼があり、もともとTwitterは思考のメモ書き程度に使っていて、短文だとストレスも多く誤解も生みやすく、いつか自分の書き込みに加筆して補足説明したいと思っていたので、こうして引き受けた次第です。編集者の言う「名付けようのない戦い」という考えに自分が到った経緯や、その概念自体の自己分析、そして私がどのような実践を試みているかを書いていこうと思います。
 
 自分で書いておいてなんですが、この「名付けようのない戦い」というタームが、いつどのような状況下で書かれていたのかすっかり忘れており、該当箇所を指摘されて初めて思い出しました。2017年12月20日(水)の自分の投稿にそれはありました。
 
テーマは「責めても構わない対象への容赦ない呵責が加速する中、それに同調するか否かの表明による承認が可視化され、その結果、住み分けという名の分断と断絶、及びその対立が加速する世界において、いずれに与することなく、この世界を現実的に一ミリでも良い方向へ動かす為の名付けようのない戦い」
 
 前後の投稿を読むと、文脈的には、私が毎年行っているコンサートのマニフェストのような形として書いたものでした。こうして読み直してみると、ああ、確かに書いたが、こんな短文で投げっぱなしにされると、何が言いたいのかよく分かりませんね。この短文に到る思考の経緯を、自分なりに読み解こうと思います。
 
 まず自分が「名付けようのない戦い」というタームについて考えるとき、受動的なものと能動的なものの二つに分類されると考えます。受動的なものとは、自分が生きているこの世界に対する感触のようなものです。かつての「戦争」というと、国家間で敵と味方に分かれて戦うものでした。この戦争は良い悪いは別として、大きく各国の経済活動に寄与してきました。大きな戦争のない今、国家にとっては経済を回すために戦争の代替行為が必要となっており、それは地図の上に線を引いて領地の取り合いをするものではなく、個人間の競争原理に基づく延長として、ダイレクトに経済行為に反映されています。簡単にいうと資本主義体制におけるネオリベラリズムということなんですが、敗者には死が待っていることから、これは立派な戦争だと考えています。この戦争に、いつの間にか徴兵されて戦わされている、という受動的な感触がひとつあります。
 
 能動的なものとは、コンサートのマニフェストに書いたように、SNSによって人間の性質というものが変わってきており、そのことに抗いたいという戦いです。今回は主にこちらの能動的な戦いについて書いていきたいと思います。
 
 私は子供の頃から各地の盆踊り会場を行き来して、どこでどの曲が掛かるかトラックリストのノートを作り、現在は廃れてしまった町内のお祭りや盆踊りをアップデートして復興させようという活動を続けています。古来より「祭り事(まつりごと)」は「政」と書きます。文字変換で出てくるので試してみてください。つまり昔は政治と祭りは直結していたのです。それは今でいう「政治」とは規模も考え方も違いますが、地域社会における人々の倫理や、村の掟のような法律に相当するもの、また支配者の統治方法、などを指しています。私は日本の伝統的な行事を継承しようとしている姿勢から、たまに保守寄りの人物とみられる事があります。それはそれで一向に構わないのですが、本稿で私が書こうとしていることは、いわゆる逆張りでもリベ負け論でもDD論(どっちもどっち論)でもありません。現場に出てアクティブに動いているリポートを常に拝見しているので、私の周りにいる知り合いについては、そうは思わないのですが、SNSで散見するリベラル寄りの人たちが、ニュース番組のコメンテーターのようにSNS上に自論を書くばかりで、いっこうに手足を動かさない感じがすることに業を煮やしている感覚はあります。では実際にその人たちが何をしているのか?というと、生活の中でできる範囲の事をしているのだと思います。それはそれで尊い事ですが、本当に自分の生活範囲で、ご近所さんや同僚、上司などにアプローチをしているのかは問いかけたいと思います。
 
 20世紀中は、電車に乗れば新聞を読んでいる人も数多く見受けられ、購読紙によって政治的な傾向がうかがい知れ、車両内での内閣支持率も自ずと実感できました。今はみんなスマホを操作しているので、その事が可視化されなくなりました。それだけでなく昔は、右だ左だといった政治的な信条によって、政治的なスタンスが見えやすくなっていましたが、21世紀に入ってからは、そうした分け方は意味を成さないものになっています。特にそれを強く感じたのは、香港の友人たちとDJのイベントを企画したときのことです。私は近年、台湾、韓国、シンガポール、マレーシアなどのアジア諸国でDJ活動することが多く、それらの国々のオーガナイザーやDJたちとネットワークを築いていく活動を続けてきました。香港はライブ公演には行きましたが、DJで訪れた事がなかったため、2019年の年末に、以前に知り合ったオーガナイザーや友人たちとコンタクトを取り、香港でのDJイベントの企画を進めていました。まだコロナ渦前で、香港での民主化運動とプロテスターの弾圧がニュースになっていた時期です。香港のレコードを掛けるイベントを香港で行い、自国の音楽文化に誇りを持ってもらうことで、全体主義に抗い、自らの手で民主主義を勝ち取ろうとしているプロテスターたちを応援したい気持ちがありました。しかし、実際に企画を進める段階で、かつて会った時はリベラル寄りの印象だった人たちが、かなり引き裂かれた状況である事が分かってきました。プロテスターといっても一枚岩ではなく、例えば中国の富裕層が大事な顧客なので、デモに参加するといった表立った活動ができないギャラリーを経営している美術商や、「アメリカがいつか助けに来てくれる、トランプ万歳!」といった日本でいう保守層的な語彙を使っている人、コミュニズムを信奉しているが中国共産党と対立せざるを得ない人など、多様で捻れている印象を持ちました。もちろん彼らはその多様性に自覚的で、武闘派も穏健派も、「いつか議会の前で会おう」を合言葉に、「おおよそ同じ方向を向いていたら、小さな差異は問わない、相手を責めない」ことを原則として活動していました。これが香港でのプロテストを強固にし、世界中で支持された要因だと思っています。実はこの原則は、SNS上での対話や交流をする上で、最も不向きです。SNSという装置自体が、望むと望まないに関わらず、「小さな差異を問い、相手を責める」ように機能してしまう事があります。この事については後述します。結果的に、世界がコロナ渦に陥ってしまい、予定されていたDJイベントは頓挫して今に至ります。いつか私も香港の知人たちと、あの時の状況を話し合いたいと思っています。なかでも、政府からの弾圧を受けていた状況で、アメリカが助けに来てくれる、トランプ万歳の人たちについて、思考を巡らせる事が今でも多いです。中国からの弾圧に拮坑するにはアメリカの力を借りなければ難しいという意見も分かりますし、またそのように考えるのはプロテスターのうちのほんの一部であって、香港の民主化運動全体に対して述べているわけではない事はご理解ください。私はドナルド・トランプという人物は、米国の大統領職には適していない人物だと考えていますが、ここでトランプを支持する人と、私が普段の暮らしの中で接してきたトランプ支持や日本の現政権支持の人たちとの共通点も探っていきたいと思います。
 
 トランプ大統領が当選した時、自分の生活圏にいる周りを見渡してみると、貧困層であれ富裕層であれ、トランプのような「デキる店長」みたいな、または「よっしゃ、俺に任せとけ」といった典型的な町会長みたいな人が支持を受けて大統領になるのは、現在のような引き裂かれた世界ではリアルだなあ、と感じたことをよく覚えています。しかしながら、SNSでの意見を眺めてみると、あんな人が大統領になるなんて信じられない、という声を多く聞きました。また昨年の大統領選でトランプが敗退したときは、その正反対の印象のギャップにも驚いたものです。自分はレイヤーの異なる2つの世界に住んでいるのか?という感触を持ちました。もはや「世界線」という言葉で、複数の解釈が可能である事が前提となっているこの世界ですが、ともあれ、彼らの論拠である、選挙に不正があった、自分たちの周りでは誰もバイデンに投票していない、という主張を聞いて、あれ?この言葉は以前にも聞いた事があるぞ、と思い当たるフシがありました。
 
 思いたるフシというのは、自分が去年ツイッターで投稿した以下の書き込みです。これは大勢の人たちの目に触れたようで、様々なリアクションがありました。SPA誌で作家の鴻上尚史さんが「僕は、このツイートを見て絶句し、しばし考え込みました。」と書き「生々しい真実があると感じられました」と記しています。また評論家の浅羽通明さんが、自身の発行されているコピー誌で「たったひとつの勲章ーナッジ的統治の前夜に」というタイトルで、労働階級の文化が既存の社会体制を再生産してしまう逆説的な仕組みに光をあてたポール・ウィリスの名著「ハマータウンの野郎ども」や、柏木義円の「愚俗の信」、孔子の「民は由らしむべし、知らしむべからず」といった言葉を引用し、丁寧に解析してくれました。そこで、もう少し詳細を書いた方が良いだろうと考え、どのようにして書き込みにあるような行動に至ったか書いていきます。
 
●ツイッターでの投稿(2020年7月4日土曜日、東京都都知事選の投票日前日の投稿です)
 
選挙のたびにSNS上に溢れる「えーっ?私の周りでは誰もほにゃららさんに投票していないのに!」という声を聞くのがイヤなので、今週は役所の食堂や社員食堂に紛れ込んで、現場の声をリサーチしています。今の所、都知事選のトピックは全く耳に入らず。今日も100人越えの話題ばかり。
 
おばちゃんたちの会話に混じって、すかさず「小池さんではこの難局は乗り切れないかもしれないですねー」等と言ってみるのだが「そうねぇ、頑張って欲しいわねえ」と。うーむ、なかなか難しい。「他の人だとどうですかねえ?」と振ると「よく知らない」と。圧倒的に「知ってる・知らない」の力が強い。
 
先週は工場のあんちゃんと長く話すことが出来た。
「野党の人たち(元発言ママ)は、弱者を救うと言ってるけど、俺、弱者じゃねえし」
「でも社会的な立場としては弱くない?」
「いや弱者だと思われると周りからナメられる」
「君よりも弱い人もいるでしょう?」
「関係ない。自分は精一杯やってる」
 
工場の雇用主は
「政権が変わると今の仕事(中国からの外注、携帯部品の研磨)が来なくなるかもしれないので困る。民主党政権の時は他の工場に今の仕事を取られた」
「現政権は関係の深いとこにしか仕事を回していないようだが」
「自分らのような下請けの下請けには、その関係が途切れたらおしまい」
 
構造的な問題は根深くのしかかってきますが、あきらめずに根気よく、対話を続けたいと思います。皆さんもぜひ、SNS以外でも、話が合わなそうな人との対話を試みてください。そうでないと、選挙のたびに「私の周りでは、誰もほにゃららさんに投票していないのに」と思い続けることになります。
 
補足すると、自分はエラソーに大学で講義など持っていますが、イベントが赤字で、まとまったお金が必要な時には、工事現場の交通誘導のバイトなどしています。山田洋次監督の映画のような、インテリゲンチャが労働者を啓蒙する、という構図ではない事をお伝えしておきます。
 
 最後のツイートで書いている通り、こうした対話を試みる行為自体が、スラム・ツーリズムのように捉えられる場合がありますが、これはあくまでも私の生活圏の中での話です。また労働者だけでなく雇用主にも話を聞いていることから、意図は理解できると思います。私は音楽批評などを執筆するときに、絶対に使わない言葉というのがあります。それは「大衆」という言葉です。中村とうようさんの名著に「大衆音楽の真実」という本があり、自分も大きな影響を受けてはいますが、どうしても分析的、批評的な態度は、研究対象を実験台の上に乗せるような、上から目線になってしまう傾向があります。ツイートでは「工場のあんちゃん」という言葉を使っていますが、これはタクシーの運ちゃん、のような親しみを込めた言葉です。ちなみに台湾でもタクシーの運転手さんは日本語の「うんちゃん」で通じます。私は大学の非常勤だけでは食べていけない為、またイベントで大きな赤字を作った時など、工事現場や飲料水の自販機の補充などの仕事で食い扶持を稼いでいます。50歳を超えると、現場では警備や誘導などの軽微な労働に回されて時給が安くなるので、実際は工場のあんちゃんは私よりも多く稼いでいるでしょう。私が「大衆の原像」論のようなものを語る時には、内側からの語りにならざるを得ない実情があります。たまたま使える語彙を持っていてこのような論考を書いているに過ぎません。私が生まれ住んでいる墨田区は東京の下町にあり、ものつくりの町として知られています。小さい規模の工場がいくつもあり、お昼時には近所の定食屋などで相席になるので、上記のような会話になるわけです。ツイッターでは140字で概要を伝えなくてはならないので、殺伐とした印象を受けるかもしれませんが、実際は友好的に「どこも大変だよね」みたいな雰囲気でした。また、工場のあんちゃんは、弱者という言葉に対して過剰反応していたようなところがありました。それは「弱者=弱虫」のように脳内変換していたようなので、そこにはさらに言葉を付け加えて説明しました。貧困状態にある労働者を弱者認定したいということではなく、彼の仕事上の誇りやこだわりなども聞くことができました。
 
 トランプ氏が当選した時に盛んに言われた言葉、「反知性主義の勝利」というのも、私にはよく分からない言葉でした。現場の親方が「この道路には裏手の古い住宅地が昔使っていた下水管が通ってるはずだから、今日の工事では一気に深く掘らないこと」などと指示を出す時、とても深い知性を感じます。それは知性ではなく経験によって育まれた職能だろう、という声も聞こえてきますが、私にとっては哲学者の形而上学的な思惟も、思考の軌跡という経験によって育まれた職能だと考えています。知的というのであれば、プログラマーがデバックで「この辺りが怪しい」とあたりをつけるのも、大工さんが季節によって変わる木材の伸縮を考えてカンナを削り家を建てるのも、大いなる知性です。そこに差はないと考えます。これまでの社会では、哲学談義の方が高等で、スイーツの話題は下等であるように見られていましたが、SNS上では同等であり、そこにヒエラルキーはなく、単なるグラデーションでしかなかったという事があらわになりました。それはとても良い事だと思っています。ピエール・ブルデューの「ディスタンクシオン」(1979)以降に趣味志向の階級化が問われるようになりましたが、SNSの勃興によってあらゆる階層の個人が全面化されたことによって、差異のヒエラルキーは無効化した感があります。いわゆる意識の高い人々が審美眼に基づいて物の価値を判断するのと同じように、市井の人がデパートのバーゲン品のサンダルを選別する際に「これだ!この一品だ」と選出する事にはなんらかの理由があるはずで、その見立てに優劣の差はなく、単なるグラデーションの違いしかない、という考え方です。SNSという装置は一気にこの差異の欺瞞を暴きました。しかし、その際に「こんなんどれを買っても同じや」と、一切の選別を行っていないとしたらどうでしょうか?先ほどの香港の画商から聞いた話ですと、中国の富裕層からのオーダーで「居間に飾る絵が欲しい。なんでも良いので一番高い絵を売ってくれ」というのがあったそうです。つまり「どれを買っても同じ」という思考を持つ一定の層にも、貧富の差はないという事が分かります。
 
 最近、ユニクロのマーケッティングに関するこのような記事がありました。
 
「服はファッション性が全てではない。そんなことに興味がある人はごく一部。服に興味がない人がストレスなく楽しめるのが本当に良い服だ」。ユニクロがこれだけ成長した最大の理由は、この「服に興味がない人」というターゲット設定にある。アパレル企業は「服にこだわりのある人」を性別、年齢、社会的属性、好みのテイストなどで細分化し、ブランドを開発するのが当たり前だった。一方ユニクロは、ファッションのことなど考えたくない、あれこれ選ぶこと自体がストレスと感じる消費者の方が大多数であると見極め、彼らに売る戦略を考え抜いた。(WWDJAPAN 2018年11月5日の記事より引用)
 
 これを政治に置き換えて考えると、バーゲンでサンダルを買う時に「どれを買っても同じや」と判断するように「政治について考えたくない」「どの政権でも良い」と考えている層が一定数おり、現政権がユニクロのように、この層にアピールしているのだとすると、とても巧みな戦略だと思います。
 
 話を戻しますと、ツイッターでの反応を見ると「東京では自分の事を弱者だと思われないようにしているのかな」というのと同様に「田舎では自分を弱者と認めるとそこでジ・エンド」という双方の意見を拝見したので、これは日本全国どこでも同じなのだな、と思いました。また「男性は自分を弱者と認めたくないんだな」という意見もありましたが、別な社員食堂では女性の事務員さんが「弱そうな態度を取ると、パキッとしたメイクの総務課のお局(おつぼね=先輩社員)に目をつけられるので、ナメられないようにしている」という意見も聞きました。どちらも「ナメられないために、自分を弱者と見られないようにする」という意見が多く、これは子供の頃からのイジメ社会が、大人になってもそのまま社会生活に反映されているのかな、と思いました。つまり、日本の風土が、構造的に労働環境にまで反映されているということで、日本人的な風土そのものを問題にしていかなければならない、と改めて痛感しました。この事も、私が盆踊りなどの日本の風土に関わっていくことの契機となっています。
 
 ナメられないため、という理由と、もう一点、人に頼りたくない、人の足を引っ張りたくない、人に迷惑をかけたくない、と思っている人が一定数おり、彼らもまた、自分たちの事を弱者だと思われたくない、という態度でいることが分かりました。これらの例は、自己責任という価値観が肥大化し、不寛容な社会が前提となっていることによって起こっている現象でしょう。
 
 いずれにせよ、いわゆる人権派の候補者がスローガンとしている「弱者救済」は、弱者の人たちに届いていないばかりか、疎ましがられている印象さえ持ちます。大きなすれ違いが起こっている。スローガンとしては「お金に困らない社会を作る」とか「お金の心配をしないで済む生活」などを打ち出した方が、まだリーチする可能性があると思います。
 
 昨今のTwitterでの書き込みを読むと、少しづつですが日常生活の中で、生活圏で政治的なトピックを語ろうとする傾向が見られるようになってきた感触があり、それはとても良い事だと思います。内閣支持率アンケートを見ると、不祥事や不適切発言があった時でさえ、現政権への支持率は35%を下回る事はなく、この辺が岩盤になっているようです。10人のうち3、4人という勘定ですが、はて?果たしてあなたの周りに、それほど多くの現政権支持者がいるでしょうか?そうした素朴な疑問から、現政権に投票する人たちはどこにいるのか?どんな人たちなのか?に興味を持ち続けています。先ほどのツイートでも貧困層の労働者と、富裕層とは言わないまでも、雇用主、商店主であるとか企業経営者であるとか、一定の収入のある人たちへのアプローチでした。ですので、収入の格差や、貧困か裕福か、という違いではなく、現政権への支持がこうした経済的な格差によるものではないという事の証左となります。では何が現政権への支持基盤となっているのでしょうか?
 
 Twitterの書き込みに出てきた工場の兄ちゃんと同様に、自分が工事現場の交通誘導のバイトの時に出会ったある青年についての対話が、とても興味深いものだったので、印象に残ったやり取りを書き記したいと思います。深夜2時に現場が終わった後、送迎のバンに乗らずに、近くにあったファミレスで朝まで2人で過ごす事になったという状況です。
 
「安倍総理が云々(うんぬん)と読めずにデンデンと読んだ時に、俺もデンデンだと思っていたので安倍総理を支持する」と言っていた彼は、スマホの操作が得意で、工事現場の人たちの帰路の乗り換え情報や時刻表などを調べて教えてあげる親切な青年でした。親の金で地方から東京の大学に進学したが、学校に行かなくなり、仕送りが途絶えたが東京に住み続けたいので自分で生活費を稼いでいるとのこと。スマホはバイト探しと「荒野行動」というシューティングゲームの実況を観るために購入したそうです。「Twitterとかは読まないの?」と聞いてみたところ、「見た事はあるが、何が書いてあるのか、何が言いたいのか分からない」とのことでした。
 
「何が言いたいのか分からない」というディティールをさらに突っ込んで色々と聞いてみると、以下のような理由が見えてきました。
 
「自分の生活だけで目一杯なのに、他人や社会の事を心配しているような意見を読むと、自分が悪人のような気がしてきて気分が悪くなる」
 
 これはとても説得力を持って刺さった言葉です。であるとともに、いわゆるリベラルの人たちが無意識に行なっている事が、正反対の結果を招いてしまっている事になります。
 
 ここでは、自分の生活をなんとかするのに精一杯であり、他人の生活のことなど考えられない、という切羽詰まった状況が浮かび上がってきます。しかし続けて話を聞いていくと「誰だって自分が一番大事であり、他人や政治などについて考える必要はない」とのこと。個人の欲望に忠実なのは健全なことだと思うのですが、さらに問い詰めてみると「金稼いで美味いもん食ってイイ家に住みたい、それのどこが悪いのか?そう思わない奴は、どこかで自分に嘘をついている」とのことでした。そして、自分のことはさておき、他者や社会全体について意見を述べるような、Twitterなどでの書き込みをする人たちについては、一言でいうと「良い人ぶりやがって」という印象を持っているとのことでした。去年の都知事選で「良い人そうだ」という事をキャッチフレーズに挙げていた候補がいましたが、これは全く届かないどころか、反感を買うはずだ、という気がします。
 
会話中に、自分のスタンスが相手と違うと彼が感じると、盛んに「ではウイグルの問題は?チベットは?」と、自分の論を展開しやすいトピックに持って行こうとするので、その度にファミレスの紙ナプキンに「①ウイグル、②チベット」などと書き記し、「これらの問題は今話してるトピックから外れるが、大事な問題なので忘れないように書いておき、あとでじっくり話そう」と諌めました。ちなみに紙ナプキンに地図を描いて、チベットはどこか?ウイグル自治区はどこか?と聞いた時、彼はただ「中国の近くだと思う」と答えました。恐らく、国際情勢を地図上ではなく、テキスト情報としてイメージしているのでしょう。これは新しい感覚だと思いました。
 
 インターネット上では、自分も立場の強い人と同等でいられるとも言っていました。どういうことかというと、社会的な立場の強い人、名前が売れているとか地位のある人に対しても、攻撃的な発言を仕掛けて失脚させる事が出来る、自分にははじめから立場なんてものはないので、ゲームと同じでいつでも名前をリセットして活動を続けられる、インターネット空間では自分の立場の方が戦闘能力として高いのだ、ということでした。これはある意味において、インターネット空間が階級闘争の場になっている、ということでしょう。むろん、かつての階級闘争とは質の異なるものですが。
 
 困ったときに助けてくれるのは仲間だろう、貧しい仲間のためを思ってなにか行動しようとは思わないのか?と聞くと、
 
「仲間は大事だ、しかし、わずらわしいしがらみでもある、いざという時にすぐに切れるように、絶妙な距離感を取っている」と答えました。
 
「自分がすぐ切れるような距離感を維持しているということは、いざという時には、相手からもすぐ切られちゃうってことか。」と返したところ、
 
「あっ、そうか!」と答え、しばらく考え込んでいました。関係における距離のイニシアチブは、常に自分が持っている、と認識していたようです。
 
 ともあれ、この青年の発言における、実生活での対人的な距離感と、ネットのSNSでの距離感の違いは興味深いものです。SNSではいつでも切れる(切られる)薄い関係を維持できる、というのは、万人の認めるところだと思います。そのことによって、生活圏における対人関係のわずらわしさから逃れる事ができる。これはSNSの大きな利点だと思います。一方で、生活圏の人間関係のわずらわしさから忌避することによって、断絶や分断、相手への無理解が起こっているのが実情だといえます。ブロックする事によって、自分と意見の合わない人がこの世界から消えていなくなるわけではありません。あとでコンビニに行く時にすれ違うかもしれませんし、同じバスの行列に並んだり、高速道路でその人の運転する車を追い越す事もあるかもしれません。論破などというネット特有の考えも有益なものとは考えられません。論破した相手がこの世界から消えて無くなるわけではなく、共にこの世界で生き続けなければならないのですから、どのように相手と共生していくかというすり合わせをしていく方が、よっぽど意味のある行為だと思います。このような他者の生活やおかれている立場、人生そのものに想像力を働かせることができない人々というのは、常にどの世界にもいます。私がお祭りのオーガナイズをする過程でも、地域振興を謳いながら、秒速1億円稼いでいそうな起業家っぽい感じの人が近づいてくることがあります。そういう人も上記の青年のような、個人の欲望に忠実でない人は、良い人ぶってるだけ、というような事を言っていました。ですのでこの問題についても、貧困問題では片付けられない事なのだと思います。多様性を標榜するのであれば、これらの人々への多様性も許容していかなくてはなりません。他者の人生に想いを馳せるのは、映画を観たり小説を読むことで磨かれていきますが、これまで培われてきた古典だけでなく、昨今の日本の物語水準は上がってきているので、その部分はさほど心配はしていません。それでもネット上の言説は、自分に都合の良い意見のリンクをひたすらクリックしていき、どんどんと極端化した言説にたどり着くようになっています。極端な意見ほど明快に感じられ、そこに一定の支持者もいることから、自分は間違った方向を辿っていない、と思いやすい。反対意見に一切、耳を貸さず目を向けないことができますから、反論に対してとても脆い自我が形成されてしまう。もしくは自分では思考したり検証したりせず、誰かが書いた反論のテンプレートを探し出すだけで、自分の自我を守るのに都合の良い意見しか目にしなくなります。これでは自意識だけが肥大化していく事を免れないでしょう。
 
 先ほどの青年との会話で最も印象的だったのは、彼の保守的なスタンスについて話した事です。要約すると、「今ではネット上のあらゆる事が検索で出てくる。反社会的な発言をしていると、もしも戦争などが起こった場合に、そのような反社会的な勢力が検索で洗い出されて、まずそういった人たちから徴兵されるに違いない。なので自分は社会に対する不満を持ったとしても、それをネットに書かないようにしている」というものでした。
 
「反社会的な人たちに軍事教練を行ったり武器を持たせたりすると、武装蜂起されるんじゃない?まずは保守的な人から徴兵して年功序列で統治すると思うよ」と答えると、やはり
 
「あ、そうか。」と言って考え込んでしまいました。
 
 どうやら現政権を支持している層というのは、積極的に現政権を支持しているのではなく、リベラル層に対する反感から、相対的に現政権を支持せざるを得ないという構図になっていることが分かってきます。「バットマン・ダークナイト」という映画で、バットマンが正義感を発揮すればするほど、相対的にゴッサム・シティの治安が悪くなっていくような構図です。ではどうしたら良いのでしょうか?
 
 音楽家ブライアン・イーノは、インタビューの中で、以下のように述べています。
「現実世界では、いろんな人と交わらなければ生きていけない。会社の同僚はもしかしたら、同じ政党に投票しないかもしれない。それでも仲良くやっているし、ランチを一緒に食べたり、お茶をしたり呑みに行ったりもする。多少考え方が合わない部分もあるかもしれないけど、だからって嫌いにはならないだろう。でもSNSの世界では、価値観の違う人たちを否定する、ヘイトが横行している。これこそが世界中で不信や分断を生んでいるのだと思う。我々の大多数は、中間地点のどこかに属しているのに、SNSのせいでみんなが両極のどちらかに押しやられてしまっている。」(Rolling Stone JAPAN vol.13より引用)
 
 これは説得力のある言葉です。イーノくらいになると、自分のアカウントを作ってSNSで発言しなくても、このようなインタビューの機会があり、自分の考えをやスタンスを述べることができます。しかし、私となると、SNSを使ってSNSの問題点を指摘したりするのがやっとです。SNSが社会の分断や断絶を加速させている、という言説は、最近はあちこちで書かれるようになり、人によっては、またその話か、とうんざりするかもしれません。断絶や分断が起こる以前に、そもそもこの社会には一体感があったのか?さらにいうと、そのような一体感はそもそもこの世界に必要なのだろうか?という疑問が頭をもたげます。世界はもっとカオティックな様相を持った存在であり、そこへの関わり方は人それぞれであって良いはずです。この「人それぞれ」というタームが曲者で、個人発信によるSNSによって、世界のカオティックな様相、というか実像が可視化されてしまった為に、とても便利な落とし所として使われている感があります。実際のところは、他者の多様性を許容するよりも、自分の独自性を容認せよと、距離の置き方の話になっている場合が多い気がします。ともあれ、SNSによって、交流の機会が広がるように見えながら、その実、経路が断たれていくように機能してしまっている、という事が問題なのでしょう。では経路を作れば良い、簡単な話だと思います。もとより昨今は、ネット上では話しづらいので、肝心な事は直接会った時に話すといった風潮も多くなってきました。ネットから現実に逃避する、なんていう声も出てきました。煩わしさを忌避する事によって分断が極端化したのなら、煩わしささえ受け入れれば良いのです。もちろん最終的な着地点は、分断の解消ではありません。また陰謀論というのは、自分の手の届かないラスボスを設定し、自分を安全圏に身をおいて、遠距離からそれを論じようというものだと思います。これは近距離にいる、自分の行動が影響を及ぼす範囲から逃避しようというスタンスですので、とても楽だとは思います。自分の同僚やご近所さんとの対話からまず始めてみるというのが、ゆくゆくは遠くまで届く事になるので、確実な実感を得られるこの方法をお薦めします。なにより先入観や予め持っているイメージに基づいて話すのではなく、具体的な人格を持った他者との対話は、相手だけでなく自分自身も知る事になります。
 
 私は9年前のツイッターで以下のような事を書いていました。
 
2012年09月08日(土)
 
良い面しか見ない人が多いけど、SNSは、2-30人の実働コミュニティや、同じクラスタに振り分ける遠心分離機/分断装置のようなシステムだと思っています。私は混ぜ込ぜにしたいので、ジューサーミキサーの方を使う。もはや紙になってないと、人は偶然に読んでくれない、とさえ思う。
 
 遡ると、前世紀の90年代、パソコン通信時代の草の根BBSのようなところでも、私は同じような事を書いては疎まがられていたので、延々と30年くらい同じ主張を続けていることになります。2、3年前に「エコーチェンバー」なる語を使って、このようなSNSがはらむ危険な要素を指摘する声が上がってきました。
 
 ここで前述した、SNSという装置自体が、望むと望まないに関わらず、「小さな差異を問い、相手を責める」ように機能してしまう事について書いていきます。SNSは、悪意なきマウンティングとして機能してしまう危険をはらんだシステムだということです。何気ない「アレ買った、コレ食った、ドコ行った」といった書き込みが、他者の劣等感を刺激してしまう事は容易に想像できます。これはあらゆるエリアの階層で起こりうる事でしょう。熱海に温泉旅行に行ったと書き込んだ人は、イタリアのサトゥルニア温泉に行った人の書き込みに劣等感を感じるかもしれないし、そもそも旅行に行けない人は、両者を妬むかもしれません。では、気を遣ってこのような書き込みを控えれば良いのでしょうか?私はそうは思いません。ただ、このようなコンプレックスと羨望を刺激してしまうシステムだということを理解しておく必要はあると思います。前述したように、ニュースのコメンテーターになったつもりで自説の政治論を展開し、そこで一定数のイイネをもらって満足してしまっている人を数多く見てきました。ガス抜きとしては良いのかもしれませんが、それがどのような作用を催すのか、前述したような相対化が起こる可能性があるのだと認識し、あくまでそうした意見を伝えるのは、大雑把に世界に向かって投げるのではなく、自分の生活エリアで特定個人の目を見ながらしていくのが良いと考えています。
 
 なぜこのような相対化が起こるかというと、それはやはりSNSというシステムそのものに内在する問題だと思います。パーソナル・レベルで並列に情報が開示されていると、個人の中でバランスを取るためにある種の引き裂かれが起こります。「私は他人とは違う」という態度と「私は普通の一般人です」という態度に引き裂かれるということです。SNSに何か書き込む以上、この事を免れ得る人は誰もいないでしょう。私は通りすがりの一般人です、と強調する人が多いのもこの為だと思います。こんにち、通りすがりの一般人というスタンスは、無辜なる善意の第三者というよりも、専門外だがひとこと言いたい傍観者、といった意味合いが強くなっている気がします。
 
 商品のレビューにおいても「ただ一点、残念なのは」と、つい一言言いたくなる例が多くみられます。ことさら他人との視点の違いを自己申告することによって、自らのアイデンティティーを確認するというのが、望むと望まないに関わらずSNSというシステムを稼働するエンジンになっているのでしょう。私が目指しているのは、他の人と同じでも大丈夫、という風土を根付かせることです。これは、他の人と同じでなくてはダメといった同調圧力とは異なるものです。そのために最低限担保されなくてはならないのは、自由意志の尊重です。放っておいて欲しい人は放っておく、これが絶対的に守られなくてはなりません。私が盆踊りという日本の風土と深く関わり、また、そこに風土の改革の可能性を感じているのも、この部分です。型があるから個々の違いが顕在化される、その個々の違いが全て許容される現場。同じ振り付けで踊っても大丈夫、あなたの独自性は保持されている、独自性が危ぶまれたらすぐに輪から離れれば良い、さらにこの共同的な行為に深い理由はない、深い理由のないフレームをいくつも用意しておき、出入り可能にする、などです。ただしこうした仕組みは、常に管理、統制する側に利用されてしまう危険を孕んでいます。私も常に取り込まれてしまうギリギリのところで駆け引きを余儀なくされます。ここでの詳しい説明は端折りますが、盆踊りのレパートリーでセックスピストルズやプリンスを取り上げることは簡単でした(いや、それなりの苦労はあります)が、それよりも「2020年版・東京オリンピック音頭」を「これはやめましょう」とするのはとても大変でした。私が盆踊りをアップデートしていく過程の顛末については、様々な取材文がWEB上にありますので、検索して読んでみてください。前述した香港プロテスターの「おおよそ同じ方向を向いていたら共闘する」というのは、SNSでは不向きであるばかりでなく、日本的な風土でも不向きである感触があります。ASAMA-SANSOUとかUCHIGEBAといった語で、日本のやり方を反省点として、自国の運動の方法論に活かしている香港のプロテスターたちをみると、日本ではまずどこに手を入れないといけないかが見えてきます。
 
 このように町内で定期的に行われる「お祭り・盆踊り」のアップデートを通じて、民主的な社会を実現していけるか?を模索して実践しているつもりです。あらゆる世代の老若男女が集い、ひとつのお祭りを実現するには、そこに様々な思惑が交錯します。ですので、それを実現する過程で、まず断絶が深まっている世代間の交流が生まれます。またSNSと違って、隣近所の人たちと相対することになるので、色んな立場の人の意見を聞くことにもなります。そこでは実際は日本的な風土の縮図ともいえるパワハラ・セクハラが横行する社会であり、長いものには巻かれろ的なものから、熟年層の婚活的なものまで様々です。日本に於ける町内会という団体、というか制度は、その出自が村社会的、大政翼賛会的であり、とても問題があります。ではそこには関わらないように放っておけば良いのでしょうか。またかつてのGHQのようにこの町内会システムを解体し、これを禁じれば、個を守る為の個人の生活は保証されるのでしょうか。放っておいたら、それこそ先の大戦時の隣組のような自警団がいつの間にか組織化され、同調圧力と強制力を持って個人の生活を脅かすことになります。ですので、それを忌避してしまうのではなく、積極的にその中に入っていって、局面局面の問題を顕在化させる事が、本当の意味での、名付けようのない戦いだと思っています。
 
 私のオーガナイズしている盆踊り大会に、DJをやっている友人が来た時に、彼の口からこんな言葉を聞きました。「北朝鮮のマスゲームみたいじゃん」普段はクラブでDJをしているその友人は、全員が一様に同じ振り付けで踊っている姿を見て、このように感じたそうです。人々が同じ動きをする事は、ナチス・ドイツに利用されたことによって、ファシズムと結び付けて語られることがよく見受けられます。誰でも、他人と偶然、同じポーズを取ってしまったり、同じ言葉を同時に発してしまった時に、笑ってしまったり喜びを感じでしまう事はあるでしょう。小津安二郎の映画の屋上のシーンなんかによく出てくるあれです。そこには何の理由もなく、なんの合理的な説明も出来ません。つまり偶然の産物であり(映画上では演出をしていますが)、そこにはただの愉悦があるばかりです。このような原初的な喜びを、なんらかの管理、統制する思考から解放したいという思いが私にはあります。この愉悦を支配する側の手に渡すな、自分たちの手に取り戻そう、というのが、自分の戦いの基本でもあります。その際に気をつけているのが、この開放感がガス抜きや去勢のように機能してしまわないようにする事です。昨今言われるソーシャル・インクルージョンやジェントリフィケーションに関する問題ですね。この件に関してはまた機会を設けて書いていきたいと思います。一言でいうと、いざという時にある目的のために即時結束し、目的を遂げたら即時解散するという、共同で物事を成し遂げる為の、ただのOS(オペレーティング・システム)として機能するようなオーガナイズを生成させるという事です。私は音楽を、世界共通語のような、全ての人々を結びつけるようなものとは考えていません。音楽や踊りの一体感というのは、突き詰めていくと、何らかの排他性によって裏付けられている事が分かります。ジャズの誕生の背景には、指揮者なんかがいる白人たちには分からない、俺たちのルールで演奏を楽しもうぜ、という思惑がありましたし、親世代が眉をしかめるような大音量で踊ったれ、という感覚がロックを進化させてきました。山向こうの村ではこの田植え歌は歌えない、といった民謡の排他性もあったでしょう。しかしながら、音楽は、踊りは、境界線を越境し、断絶や分断を刷新してきました。私は音楽や踊りを、遠心分離器ではなく、ジューサーミキサーとして機能させたいと考えています。SNSというのは、延々と決着をつけないまま議論を引き延ばせるテーブルであり、それがひとつの利点でもあります。決定的な争点に至らぬまま横滑りを続ける事によって、直接的な衝突を回避する良いシステムだとも言えます。しかしながら、私はその席に座ろうとは思いません。学園祭の期日までに何らかの演目を採択しなければならないように、擦り合わせの技術を体験として学んでいかないと、SNSのように自分の主張が通るまで、または相手を論破して打ち負かすまで、延々と持論を展開する形になってしまいます。決定的な亀裂が露見するだけでも意味があると思います。一緒にやらなくてもOK、という事が前例として可視化され共有されていく事が大事なのです。でないと、いざという時に「なぜあなたは参加しないのだ?」という強制力が働くことになってしまう。その為には、これだったら参加してもよい、この役割なら担えるというフレームをいくつも作っておき、参加機会のある時だけ参加できるようにする。私はネット上に自分たちの理想郷を作りたいわけではありません。自分の生活圏を楽しく安全で居心地の良い場所にしたいのです。この現実をちょっとでも動かす為には、局所局所において小規模で直接的な衝突を起こし、多様なフレーミングを生成させ、それが一定化しないように、部分集合がいつでも移り変われるように組織化していく。そして解決できる小さな問題を各所に起こし、実際に自らの手で暫定的な解決に導くという、民主主義の演習を行う事が、私が盆踊りを通して行おうとしている大きな目的です。世界を「よき運動体」としてドライブさせようとする時、SNSを使っていては、問題が真の意味で局所化してくれない、偏在化して分断を生むだけというのが、私の考えです。
 
 近年は代理店やコンサルが仕切るタイプの盆踊りも多くなってきました。彼らは「問題解決」のプロなので、せっかく私が各所で小さな問題を顕在化させ、当事者であるみんなで話しあって、すり合わせて解決していこうとするところを、ストーンと彼らが責任を負う形で問題をかっさらっていってしまう事がよく起きます。自分がたまに関わる広告音楽業界でも、間に音楽プロダクションが入ることによって、クライアントや発注元の代理店にはリスクが生じないように、いざとなったら頭を下げる、尻尾を切る機関が存在します。日本経済のこんな末端なところでさえそうなのですから、日本社会における、問題の起きない合理的な仕事の進め方というのは、徳川幕府以来変わっていないのではないか、いや、さらにもっと巧妙化しているのではないか、とさえ思います。また昨今はスマート・シティ、ウーブン・シティ構想などの自治体単位で行政の代行をさせようという動きが出ています。一見すると自治権が委任されて住民の意思が反映されるような気がしますが、これもまた、すり合わせ方の技術、民主主義の演習を怠ったままでいると、知らぬ間に事態が進行し、個人は抑圧され、さらにその責任を自らに負わせられることになります。
 
 私は盆踊りを通しての地域振興などの講演に呼ばれてお話をすることがたまにあります。盆踊りは公園などの公共スペースを使って開催することが多いので、まず「公(おおやけ)」という文字をホワイトボードに書きます。そして「この、公という字を見て、皆さんはどんなイメージを持ちますか? 公とは、自分のことですか?それとも他人のことですか?」といった話をします。その結果、公という文字に対して持つイメージは、お上(おかみ)のもの、お上が我々に提供しているものというイメージを持たれていることが多かったです。この社会を楽しく面白く、有意義で居心地の良い場所にするのは、お上をはじめとする、誰かがやってくれる、わけではありません。それはあなたがやるしかないのです。現在、私たちには自助が強いられています。また共助しなければやっていけないような貧しさ、弱さを持っています。名付けようのない、終わりなき戦いを、それぞれの場所で続けて、本来あるべき公助を取り戻しましょう。それが本当の意味での「政(まつりごと)」です。

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岸野雄一(きしのゆういち)

音楽家、オーガナイザー、著述家など、多岐に渡る活動を包括する名称としてスタディスト(勉強家)を名乗る。東京藝術大学大学院映像専攻、美学校音楽学科では主任を務める。音楽劇『正しい数の数え方』が文化庁第19回メディア芸術祭エンターテインメント部門で大賞を受賞。近年では、盆踊りをアップデートするプロジェクトや、コンビニにDJブースを持ち込んだ『レコードコンビニ』、墨田区内の銭湯を舞台としたDJイベントなど、常に革新的な『場』を創造している。

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