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生涯学習note2020.04/23

「誓い空しく」、京浜兄弟社とは?

 昨日22日に再発されたコンピレーションCD「誓い空しく」、皆さん入手できましたでしょうか? 現在、流通の関係から、様々なCDが発売延期になっているようですが、無事に通販で届いたという報告を受けて一安心しています。
 このコンピのアーティスト名となっている「京浜兄弟社」とはなんなのか? 資料を整理していたところ、音楽評論家の松山晋也さんよりのメールを発見しました。
「で、ですね、ここのところMM誌面で私が何度も
「京浜兄弟社」という言葉を出していたため、
編集部から、用語解説のページでそれを説明せよ、
と要請がありました。

いざ、改めてそう言われると、
私もなんとなくわかってはいても、
詳細かつ正確には説明できないわけでして・・・
で、岸野さん、改めて説明してもらえませんか。
「京浜兄弟社」とは何なのかを。」

という事で、時間を作ってお話ししたところ、以下のような紹介文になりました。

「京浜兄弟社 1982年、東京ニューウェイブ末期に活躍していたバンド、東京タワーズのファンクラブとして、当時高校生だった写真家の常盤響により結成される。実質上は、岸野雄一や加藤賢祟などの東京タワーズのメンバーを中心とした音楽研究サークルとして機能していた。押上にある岸野の自宅が集会所として機能しており、所蔵された膨大なライブラリー=レコードやテープを解読、研究する為に、前述の常盤を始め、蓮実重臣、菊地成孔、永田一直、倉地久美夫、宮崎貴士、ムードマン等、後に重要な音楽シーンのキーマンとなる人物達が集うようになる。いわゆるパーティーのような集いではなく、合宿所のような体制で、酒もなしにひたすら音楽を聴き討議を繰り返すという勉強会であった。また単なる研究サークルに留まらず、岡村みどりや松前公高、ゲイリー芦屋などの実作者も多く集っていた為、その後の職業作家集団としての側面も併せ持っていた。90年代に入り、レコードショップ、マニュアルオブエラーズの開店や職業作家のマネージメント会社として登記したあたりから中心人物であった岸野は退陣し、現在は岸野の個人的な活動にその名前が使われる程度である。」

 また、Wikiに記載されている内容も、大雑把ではありますが、間違った記述は見当たりませんでした。ちなみにですが、私のWikiの記述は何点か間違いがあります。自分のWikiを記述、編集した人物に会ったことがあるのですが、そのままにしておいてほしい旨を伝えました。このことにより私は胸を張って「Wikiの記述は間違っていることも多いので、信用したり引用したりするな!」と言えます。具体的に言うと、Wikiの記述の中にある「岩野雄一名義を使ったことがある」というのは間違いです。そのような名前は使ったことがありません。なぜそのような誤認が生じたのか推理すると、おそらく出典は、日本映画データベースというサイトです。このサイトは個人がキネマ旬報誌の公開作品リストを手で打って作成しているものです。そこでキネマ旬報の84年下旬号を調べてみると、「岩野雄一」という誤植を発見しました。このような経緯を説明した上で「そのままにしておいてほしい」と説明したわけです。その方からは、Wikiに記載されている、シューゲイザーという語を初めて使ったとされている、イギリスの音楽雑誌「サウンズ」の92年の該当号を調べてみたところ(原典にあたったところ)、シューゲイザーの「シュ」の字も無かった、という事です。やはり実際に手足を使って調べないとダメですね、勉強になりました!


 さて京浜兄弟社の説明に戻りたいと思います。時系列的に説明するのに、加藤けんそうくんのインタビューをまず読んで頂きたと思います。これは「21世紀の京浜兄弟者」のブックレットに掲載されたものですが、現在、廃盤となっているため、読むことが叶いません。けんそうくん及び発売元に確認を取ったところ、どんどん転載して宣伝してください、ということでしたので、改めて読んで頂きたいと思います。

加藤賢崇インタビュー
東京タワーズ / インド大話術団
インタビュー・構成:京浜兄弟社 社史編纂室

 様々なメディアで俳優・声優・漫画家等々と多彩な活動を繰り広げる加藤の本格的な表現活動の第一歩であり、京浜兄弟社の母体となったバンドが東京タワーズである。現在でも断続的に活動を行っている同クループの初期の話を中心に、その後へと繋がる過程も含めてインタビューを行った。

加藤と中嶋勇二により1982年春に結成され、同年7月の初ライブから半年の間にライブハウスで10本程度のライブを行っただけにも関わらず、「ミュージックマガジン」の新人バンド特集でも大きく取り上げられるなど、音楽関係者から高い評価を得ていた東京タワーズ。当時は「狼少年ケン」「ウルトラQ」などのアニメや特撮、そして橋幸夫や城卓矢らのリズム歌謡といった、1960年代の楽曲のカバーが主なレパートリーとなっていたが、何故そうなったのか?

そういう方向性で行こうって決めたのはぼくだったかもね。オリジナルを考えるような力も無いし、普通のロックのカバーじゃ当たり前で面白くないし。当時はアニソンをやるようなバンドはあんまりいなくて、「キャプテンウルトラ」のテーマ曲をロックバンドで演奏するだけでもみんな喜んだ時代だったけど、当時はまだ家庭用のビデオもあまり普及してなくて、レコードがようやく復刻されはじめた位だったしね。あと、ぼくも中嶋もSFマニアでもあったので、そういうマニアが集う大会に行くと、同人誌と一緒に自分で勝手にテレビから流れているのを録音して、マッシュアップ的にメドレーに編集したカセットとかレアものも売ってたの。で、こういうのをバンドでやれば面白かろうって思ったんだよね。一番最初にナイロン100%でやった東京タワーズのライブも、SF大会で上映するためにビデオに撮ってたしね。
それに、1960年代の怪獣モノやクレイジーキャッツや若大将の映画とかが1970年代に封印されたかのようになってたのが、丁度その頃、レトロブームみたいな感じで復活してきた時期だったんだよね。

で、岸野の人脈によって音楽関係以外の人と関係が広がっていたのは大きかったな。今関(あきよし)さんや犬童(一心)さんとか8mm映画で活躍してた20歳位だった人達が「ビックリハウス」主催の映像イベントで上映する用に、まだ初ライブに向けて練習してる段階の東京タワーズのPVを岸野を介して知り合ったばかりの手塚眞が撮ったんだよね。逆に手塚がぼくらと知り合ってからアンダーグラウンドな音楽シーンに急にのめり込んでいって、「えっ、そんなマイナーなの見に行ったの!?」ってこっちが驚くくらい(笑)、どんどん吸収していってたね。

結成した年の末にはハルメンズの解散ライブで前座をやったりとか、上の世代の人達から声を掛けられるようになったけど、ぼくらはお客さんとして常連だったから「熱心な奴らだ」って顔を覚えられていたのは大きかったかもね。それに、最初から様々な方面にマニアックな知識を身につけていたから、「オレたちは面白い事をやる! やってるはず!」という誘われて当然ってくらいの闇雲な自信はあったんじゃないかな。

でも、ぼくが気持ちの波が激しいところもあって、ライブをいっぱいやるとしばらく休もうかなって気持ちになりがちでね。岸野もそんなに頑張るタイプではないのかなって思ってたけど、彼は下町の人間だからお祭り好きな事が後々分かってくるんだけどね。それに、ぼくは自分から積極的にやりたい方ではなくて、人から誘われると勿体無いからやらないといけないんじゃないかって感じだけど、岸野は逆に、人から誘われても自分が気に入らなかった時はやる気が無くて。例えば、近田(春夫)さんにビブラトーンズの前座に出ないかって言われても、「沢山バンドが出るイベントならいいけど、二組だけでヘタクソなのやっても恥かくだけだからやめようぜ」っていう。その辺でも違いはあったのかな。

まあ、ぼくも岸野も飽きっぽいのは共通してたんで、音の傾向はどんどん変わっていったね。1984年にDEVOの『SHOUT』が出た時に周りのみんなに「今さら?」みたいに言われてたけど、ぼくたちの中ではスゴく良かったし、SPARKSも当時はコンパクトでビシっとしたテクノをやってたから、東京タワーズもそういう方向のサウンドに持って行けたんだけど、しばらくやったら疲れちゃった(笑)。

こうして東京タワーズは、1984年11月に行われた武蔵野美術大学でのイベント「アポロをさがせ!」をもって一旦活動を休止するが、常盤響らにより東京タワーズのファンクラブである京浜兄弟社が設立されたのもこの頃であった。

常盤君が東京タワーズに熱心に関わってくれるようになって、ライブに来たり遊ぶようになったんだよね。で、常盤君と仲間の久野(恒)君とで東京タワーズのファンクラブを作るって話だったんだけど、しばらくして久野君は離れていったな。ただ、その後、彼は武蔵美に行って、メロディベースというバンドで、CSV渋谷が関わったサンチェーン・ミュージック・バトルロイヤルのグランプリを取って、再び関わる事になったんだけど。
それで、常盤君が残って、途中から来た皆川仁君と二人で、既に常盤君は地元の友達とかとミニコミを作る時に使ってた京浜兄弟社の名でファンクラブを作って、最初の会報を武蔵美のライブの時に売ってたな。
で、岸野が「名前の響きが面白いし、秘密な事を企んでる感じでいいね」と言ってて、ぼくらも何かやる時は京浜兄弟社って名前にしようか、となって、翌1985年にナイロン100%のライブで東京タワーズのメンバーが色んなユニットを作って毎月ライブをやっていこうって時に京浜兄弟社と名前を無理矢理つけたんだよね。その時は少しバンドに飽きてた頃で、他のメンバーはそれぞれのバンドを始めたんだけど、ぼくがやるとしたら東京タワーズでしかやらないって気持ちもあったかな。

さて、若干遡るが、バンドでの活動も続ける中、1984年に制作された映画「女子大生・恥ずかしゼミナール」(翌年「ドレミファ娘の血は騒ぐ」として公開)の主要なキャストとして、これまで役者経験の無かった加藤が抜擢された。これがきっかけとなり、同作の共演者だった伊丹十三が監督を務めた映画「タンポポ」をはじめとして、俳優としても活動していくのであった。

岸野が出た「神田川淫乱戦争」の監督をやってた黒沢(清)さんが東京タワーズのライブを見に来られた時に、丁度もう一本作る話があった頃で「岸野くんに出てもらおうと思ったけど、賢崇くんにも出てもらおう」と言って下さって。ぼくは役者をやった事はなかったんだけど、まあ、当初は日活で低予算で撮ってたからというのもあったんだろうけどね。
それから、だんだんと役者として忙しくなっていったんだけど、音楽仲間と自分の役者業がリンクしていくかなと思ったらそうでもなかったんだよね。でも、ラジカル(・ガジベリビンバ・システム)の舞台に出るようになった時に、大竹まことさんのバックを有頂天がやるとか、川勝(正幸)さんが放送作家になるとか、東京タワーズの頃に付き合いのあった人達とバッタリ再会したりして、結局みんな繋がってるんだなとも思ったな。

でも、まあまあメジャーなテレビの仕事などもしつつ、京浜兄弟社のイベントには出続けてたのは今振り返ると自分でも不思議だけど、やっぱり仲が良かったんだろうね。馴染みの友達の所に帰るみたいな感じかな。あと、メジャーでやってた場面でもどこかで繋がるところがあったのかもね。

その頃、ぼく以外の人達は西荻窪 WATTSのイベントとかでクララ・サーカスや色んな人と知り合ったりして、そこが京浜兄弟社の本当の始まりかなと思うけど、ぼくはみんなが出会ってる場面には実際には立ち会ってないんだよね。
京浜兄弟社については最初から「一般的に分かりにくいことをやってるんだろうな」とは感じてたけど、活動を続けるうちに「何故、これでもっと広く世間の人に知られるものにならないかな?」とも思うようになったね。でも、自分達で殻を作っていた所もあったし、みんな淡白だったのかな。イカ天が流行ってた頃でも誰も出たいって言わないし、「あんなもの!」って感じだったしね。

その後、昔からみんなで言ってた「中古レコード屋をやろう」という話をマニュアル・オブ・エラーズで実現させたわけだけど、結局、初期の東京タワーズがトキワ荘だとしたら、マニュアル・オブ・エラーズになっていく過程というのは、その出身者が夢だったアニメ制作を実現させるために作ったけど、事務的な事ばかりになってしまったスタジオ・ゼロみたいな感じだったんじゃないのかなあ。

京浜兄弟社ファミリー・ツリー

 思いの外、京浜兄弟社の説明だけで長くなりそうです。また改めて機会を設けて解説と考察を続けることとして、同じくブックレットに掲載されたファミリー・ツリーを掲載して、予習としておきましょう。ツリー制作者は、ばるぼらくん、ベガスくん、ヒタチくんでした。画像は拡大して閲覧してください。

京浜ファミリー・ツリー

 本稿の最後に、91年のオリジナル版の「誓い空しく」発売時のフライヤーを載せます。2020年度版と同じ「幻のアルバムという噂は本当だった」というキャッチコピーが使われています。この出典は映画雑誌、ロードショー誌の77年号11月号に掲載されていた、ニューヨーク・パンクのテレヴィジョンというバンドの紹介記事につけられていた見出し「幻のバンドという噂は本当だった」から引用されています。どうか口に出してゆっくりと読んでみてください。まるで禅問答のような含蓄に富む言葉です。

誓いチラシ

次回は「誓い空しく」全曲解説に加筆したものを掲載しようと思います。お楽しみに!(続)

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