「ある音楽プロデューサーの死をめぐって」

 音楽プロデューサーのフィル・スペクター(Phil Spector)が、収監先のカリフォルニア州立刑務所内で、米現地時間の2021年1月16日に、新型コロナウイルスによる合併症により享年81歳で亡くなった。
 この固有名詞に馴染みのない人でも、上記の記述だけで、もうすでに映画を観ているような感触があるかもしれない。映画畑の人にフィル・スペクターについて説明するには、「イージーライダー」の最初の方のシーンで、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーからヘロインを買う役の男だといえば、ああ、あいつか、と思い出すかもしれない。デニス・ホッパーは取材で「あのシーンはバカ受けだった」と答えているが、フィル・スペクター本人としての出演であり、それが受けたということは、ヒッピーからヘロインを買う落ちぶれた音楽プロデューサーというのが、アメリカ本国でのパブリック・イメージだということだろう。
 ハリウッド・バビロン的に誇張された逸話も多い人物であるが、音楽的な功績は多いどころか、彼がいなかったら広義のポピュラー・ミュージック=ポップスは、現在と随分と違うものになってしまったであろうと思われるほどの重要人物である。アメリカのポップスがまだ黎明期だった時代、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で主人公が最初に戻ってしまったような時代のアメリカを想像してみて欲しい。正確には1959年、フィルが17歳の時に、高校の仲間と作ったザ・テディ・ベアーズというグループで、父親の墓碑に記されていた言葉からヒントを得て書いた歌詞を用いてリリースした「会ったとたんに一目ぼれ(To Know Him Is To Love Him)」が、全米ナンバーワンのヒットとなった。この事実だけで、万能感に満ち、その万能感に押しつぶされた彼のその後の人生を予見させるものである。自分の才能が表舞台よりもプロデュースにあることを悟った彼は、グループを解散させ、自身のレーベルを友人と設立し、音楽プロデューサーとして身を建てることになる。おそらくその過程においても、彼の万能感は随分と削がれ、ナイーブさがねじ曲がった形で形成されていったことだろう。音楽家が、音楽家自身による表現を捨てるという事は、よほどの決心であり、何かを諦めた代わりに、自分が作り上げたい作品世界のヴィジョンを明確に持っていた、ということである。実際は、楽曲を発注したソングライターチームに自分の名前もクレジットすることに拘ったり、一緒にレーベル作った友人をそこから追い出して独占したり、作品世界の為には全てを投げ出す、といった美談ではなく、複雑なパーソナリティーを持った独りよがりの人物という面も付き纏う。
 彼が作り上げた音楽がどのように作られたかというと、スタジオに卓抜した演奏者を集めて「せーのっ」で一発録りする。名俳優を集めて全員に演出を施し、ワンシーン・ワンカットでモブ・シーンを撮るようなものである。極端に深いエコーと、マイクとテープの許容範囲ギリギリのコンプレッサーが掛かり、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれるサウンドが出来上がった。音の壁である。全ての楽器が一体感を持つまでセッションは繰り返され、またステレオの時代になってもモノラルに拘り、音の塊が直接に脳髄を刺激するような作りが施されている。その結果「ティーンエイジ・シンフォニー」とも呼ばれる作品世界を作り上げた。
 つい先日、サブスク解禁された大滝詠一の諸作品にも彼の多大なる影響が見受けられる。ビートルズの「レット・イット・ビー」で聞かれる荘厳なコーラス隊とオーケストラによる伴奏のアイデアは彼によるものである。ポール・マッカートニーが作ったシンプルなバラードをあのような大袈裟な世界に作り替えたのは、オーバープロデュース(過剰演出)だと評されたが、解散間際の混迷期で投げ出されたセッションをあそこまでまとめ上げた手腕は見事と評された。その後は、ジョン・レノンのプロデュースをしているが「その歌い方は違う」と、ヴォーカル・ブースで銃を取り出し彼に向けたり、納得のいかなかったマスターテープをスタジオから盗み出して逃走したりと、奇行が伝えられる事が多かった。
 2003年には、女優ラナ・クラークソンを射殺した容疑で逮捕され、フィル自身は彼女が自殺したのだと容疑を否認したが、裁判の結果、第2級殺人罪で禁固19年の有罪判決が下り、カリフォルニア州立刑務所に服役した。2013年にデイヴィッド・マメットが脚本・監督、アル・パチーノ主演で伝記映画『フィル・スペクター(英語版)』が製作された。
 こうした問題の多い人物の追悼は難しく、その作品を評することは問題が付き纏う。私は作品評と人物評は切り離して考えるべきだと考えている。素晴らしい功績を残した作品群は、その後の音楽史に多大なる影響を与えている、その部分はきちんと評価しないと、音楽史を語ること自体が歪なものになってしまう。無かったことにはできないのである。その一方で、独りよがりで傲慢であり法に抵触する行いを持ったことについては、法による裁きと、人間的な評価をきちんと行うべきで、素晴らしい作品を残したからといって、それらの罪が免罪される事はない。問題が別なのである。それらが同居していることは興味深く、その同居から多くの事を語りたくなってしまう誘惑があるのだが、まずはその切り離しを行わないことには、現代の批評は難しくなっている。それは映画という世界においても同様である。

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付記:本屋さんで雑誌を購買する層だけでなく、ネット上で公開すると、さらに広範囲な方々が目にされると思いますので、若干の補足をします。
人に銃を向けてはいけません。そんな時はどうすれば良いか?警察に通報します。
人を殺してはいけません。そんな時はどうするか?警察と司法に委ね、刑を確定し、刑務所などに収監します。
また各国の基準に照らし合わせた薬物使用に対する措置もあります。
これは前提です。
当然のことながら、法治国家に生きているのですから、超えてはいけない一線はあり、罪を犯したら罰は受けなければなりません。
間違ってはいけないのは、素晴らしい音楽を作ったのだから、その事によって罰を減軽する、ということではない、ということです。
また、だからといって、レットイットビーを聴くのをやめる、というわけでもありません。
レットイットビーのオーケストレーションとミックスに対する評価は、上記の事とは切り離して、大仰で陳腐である、とか、ゴージャスで感動する、とか、各々評価をすれば良いのです。来年のクリスマス・シーズンにも、変わらずヨーカ堂や西友では、フィル・スペクターのクリスマス・ソングは流れると思います。そんな時、どん兵衛天ぷらそばをカゴに入れる時にでも、上記のことをちょっと思い出していただければ、と思います。


上記の記事は「映画芸術2021年5月号通算475号」に掲載されたものです。次号476号が発売されたことを受けて、編集部の許可を得て転載しました。掲載誌は稿料が出ない体制ですので、筆者が無償で書いた記事です。もしもよろしければ下記よりサポートをお願いいたします。

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