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ものづくりとは何か(1)

ものづくりとは何か

「ものづくりとは何か」ということについて考えてみたい。ものづくりというと手作業のイメージがあると思うが、まあ、最初はそれくらいのゆるっとしたところから入る。
僕はいま本屋店主をやっているのだが、それまでは十二年間、伝統工芸職人をやっていた。一年の多くを手づくりで工芸品をつくることで生計を立てていた。まずここで重要なのが、僕は職人といっても会社員で会社から月収と夏と冬のボーナスをもらっていた。つまり会社に雇われていたので、自分のペースではなく会社が従業員に求める作業ペースで働いていた。手づくりなので質の高さを求められるのはもちろんだが、それ以上に作業スピードの速さを求められた。人数の少ない会社だったので意見は通りやすかったが、必ず上司の了解が必要だった。ちなみに僕は課長だった。
小さい会社で少ない人数でものづくりをしていたのだから、小さいことをやっていたとおもう一方で、ひとりでやるものづくりと比較したらこれは十分大きいし、何よりしっかり組織化されている。
ものづくりには大きいものもあれば小さいものもある。
これがけっこう罠だとおもう。
ものづくりが好きなひとはたくさんいるとおもうし、それを仕事にしたいひともいるとおもうが、大きさで考え出すとこれがなかなかやっかいなのだ。小さな会社でコツコツものをつくるのは果たして小さいことなのか。大きな会社から見たらそれは小さいだろう。しかし、給与面でいえば悪くなかった。小さくても業績の良い会社もある。

もうひとつべつの話。
僕の知り合いに印刷会社で働いているのがいる。いつも忙しそうなのだが、それはそうでたったの三人でまわしている。それが二十年続いているという。なぜ仕事が途切れないのかというと、印刷会社の社長が昔に市役所など役所の印刷関係の仕事を大量に引き受けたらしく、付き合いも上手で、そういった仕事がいまも毎年同じだけあるらしい。三人体制で給料もいいが、仕事は面白くないらしい(本人はもクリエイティブなタイプではなくそれでいいとおもっているらしい)。それはそうだろう。毎日似たような印刷物ばかり刷っているのだから。しかし、これも、ものづくりだ。

ものづくりをするとき、ひとは何を求めるのか。
僕が伝統工芸職人を仕事にしたのは、この時代に手づくりでぜんぶつくったものを販売するのは面白かろうとおもったからだ。やってみてじっさいにおもしろかったから十二年も続いたわけだが、これをずっとやるわけにはいかなかった。お金は良かったが、自分の意思で好きなように判断して動けないのは物足りなかった。ものづくりをぜんぶ自分の自由にやりたいという要望が芽生えていた。

さっきも罠だといったが、物事を判断するときに、大きい小さいだけで考えると判断力は鈍ると考えている。大きい、小さい、というのはひとつの仕事のなかでも混じり合っており、眺める場所によって大きさもかわる。小さい会社でも大きい仕事をとってこれることはある。かりに面白さはなくても。だが、大きければ会社は当然やる。従業員に選ぶ権利はない。

なので僕の場合、ものづくりをする仕事をやり、やめる決心をしたあたりから、大きい小さいで考えなくなった。小さいからこんなもんだ、大きいからこれだけやれる、みたいな考え方で選択肢を決めない。
本屋をつくるのも、ものづくりだ。
ここでもしお金をかけずに小さい店をやる。だけど大きく稼ぐ。とつくるまえに口にしてたら、誰も信じてくれなかっただろう。だが、小さい店で小さく、大きい店で大きくはこれだとあまりにふつうなのだ。そしてふつうにやっても本屋はむずかしい。なぜ本屋の運営がむずかしいのかはつぎの「仕入れとは何か」の章で書くことにする。

大きさや小ささではない見方で、ものづくりをするときに必要なのは、「位置」ではないだろうか。「地点」という言い方でも良い。自分がそのものづくりにおいてどの地点から始めたいか。
伝統工芸品の話に戻そう。仕事の大きさに関してはじっさいにやってみなければわからないが、位置ならばやらないでも大体わかる。まえの会社は四十年続いていた。僕が入った地点で三十年だった。当然のことながら、自分で決めて好きなものをつくりたい人間なら入るまでもなく、三十年をすぐにひっくり返すなんて不可能だ。とても当たり前のことにおもえるが、自分がものをどこからつくりたいかは重要だ。ものづくりに完全なオリジナルはほぼ存在しない。ゼロ地点からものを生み出すことはとんでもなくむずかしい。けれども、自分のやりたいことをこのゼロ地点に近づけていくことはできる。そこに大きさは関係ない。とにかく自分のつくりたいものを自分ひとりでやる方向に持っていく思考を心がける。お金や環境よりも、つくりたいものに対し自分がいる地点を意識する。
べつに自分でぜんぶやりたいわけじゃなく、途中の地点から始めてもいいのなら、むしろそっちが良いのなら、自分ひとりでやる道を選ぶ必要はない。
十二年前の僕はいまの自分とはちがったから、会社で働くのを選んだとも言えるが、実際のところはこんな思考法でものを考えていなかった。
仕事とは会社に雇われるものだと思い込んでいたんだとおもう。自分で起業するという発想自体がなかった。何か他のひとがつくらないものをつくれる場所はないか。それくらいの感じだから、ゼロ地点からはほど遠い。

大切なのはやりたいことのために、自分がどの地点から始めるかなのだ。
そこさえ決まれば、どういうふうにしてものをつくっていくかも決まる。
つくりたいものもないのに、自分の居場所はわからない。わからないのに、ただ会社で働きたくないからとか、一人じゃお金が心配で恐いから、と考えても、それでは何もわからない。わからないことをいくら考えてもわからないの沼にはまり続けることになる。
小さいか大きいかに似ているのが、趣味でやるのか、仕事でやるのか、だ。もしくはアマチュアでやるかプロでやるか。ここでも絡んでくるのかお金の話だ。やっかいなのはこのお金というやつなのだ。だがそこを考えるより先に、何度もいうように自分の位置を固定してみる。かりにゼロ地点ギリギリのところでつくりたい衝動があるなら、まずはそれを受け入れ、そのなかで何ができるか試してみる。趣味や遊びが仕事になるのはあることだ。続けていたら思わぬ場所にいたというのは。ただ何にしてもつくらないことには始まらない。
夢は大きいほうがいい。本当にそうなのか。お金にならなくとも小さく細々とやれたらいい。それで満足なのか。考えても考えてもきりがない。それぞれの人にそれぞれの相応しい位置がある。自分はどこにいるか。その足場だけは確保したほうがいい。足場を固めたら手を動かすだけだ。

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