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アマチュア創作の秘奥義(三)

    二十代のころは小説しか読んでおらず、それも自分の年齢と近い主人公が出てくる男性国内作家の作品ばかりを好んで読んでいました。これはもう理由は明白で、いつか自分も小説を書いてみたい、それなら属性や年齢の近いものから刺激を受けた方が使えるものは多いと思っていたからです。それはそれで感覚が近いから読んでいて面白いし、どんどん自分に引き寄せることができるからすんなり入ってくるので、読書ペースもおのずと上がっていました。多い日だと芥川賞候補作六本を一日で読むなんてこともできてました。この時の読書量があるから、いま本屋をやっていて選書だったり、本の紹介に役立っているんですが、これが創作のアウトプットに好影響をもたらしたかというと、そんなことはなかったんですね。いざ小説を書こうとしても自分の読んできたもののつぎはぎだらけのパッチワークばかりができて、結果できあがってもぜんぜん面白くない。新人賞にこれは出せるぞ、だけど落選しましたならまだいいんですが、出してもこれはだめだともうその時点でわかってしまうくらいつまらないものしかできない。ああ、自分には文学の才能がないな、諦めて読むだけの人間でいよう、と思った時もありましたが、それでもやっぱり小説を書いてみたい、ではどうするか。
    ここで先に言っておきますが、僕は今も小説家にはなってませんし、アマチュアでも小説を発表し続けることができているわけでもありません。もっというと文章作法について書いてるわけでもありません。ここで書いているのは、好きなことをやめずにその中で自分に合う適正を見きわめて活動すると活躍しやすいということです。じつをいうと、僕はこの適正をみつけて伸ばすということをずっとやってますが、自分より他の人だともっとわかります。だから誰かの作品をみると、この人はこういうのを書いたらきっと人気になるだろうなとアドバイスすることがよくあります。そこは少し勉強と似ているかもわかりません。好きだけど苦手なものはなかなか伸びない。それよりも好きなことをやりつつ、得意なことを見つけてそっちを伸ばすということをやらないとなかなかまわりの評価にはつながりません。さっきの読書の話に戻りますがらやはり好きだけど同じジャンルのものだけを読んでいたら幅が広がらない。二十代のころは国内現代小説ばかり読んでいましたが、そこから古典、外国文学にいったら、今度は小説だけじゃなく随筆、人文書、詩歌、美術書といろいろ読むことで、それまでとはちがう発見がありました。そしてそれをごった煮にしていろいろ創作すると今までとはちがうものができあがるようになりました。僕は今でもいつか小説を書きたいと思ってます。最終地点はそこです。だけど、べつの形の創作が評価される可能性があるならそれをやっていく。遠回りかもしれないけれど、結果的にはその方が面白くなるという確信があり創作をしています。これはもしかしたら第一回のドゥルーズの逃走線の話ともつながってくるかもしれません。うまくいかない場合はそこから逃げてもいいと思います。逃げて逃げて戦える場所で自分のやり方で戦う。いつか最初に逃げた場所に戻ることを目指して。だからやはりアマチュアは専門家にはなれないし、その道では勝てない。僕は専門家には本当に憧れるし、すばらしいと思っています。YouTubeの対談でラテンアメリカ文学の翻訳家の寺尾隆吉さんが「翻訳のために読むラテンアメリカ文学以外の本を読んでいる暇がない」とか「他のジャンルのことはここでは言えませんが」と徹底しつつ、ラテンアメリカ文学に関しては自信にみちていて、縦横無尽に話す姿には心から感動を覚えます。これがプロの姿なんだと畏れにも似た感情を抱きます。僕もラテンアメリカ文学は大好きなのでこのような立場で、一生やっていく仕事が決まってたらどれだけ素晴らしいかと思うんですが、当然のことながら絶対に無理なことです。ファンでいることしかできません。でもだからといって、読書が好きで本に関することや創作を仕事にすることがまったくできないわけじゃない。一つのことを徹底してやるならばはやいにこしたことはないかもしれませんが、アマチュアというプロとはちがう自由な存在だからこそ見つけられる場所というのがあるはずです。僕は昔、読書で年齢や属性に引っ張られていましたが、今は本当にそういうものは関係ないと思ってますし、口にもしています。年齢や属性に関係なく、創作は誰もが今すぐにはじめて楽しむことができるものだと。
    自分の知らない世界にあっという間に入っていけるのが、読書の醍醐味です。最近、僕は高島鈴『布団の中から蜂起せよ』を読んでます。これも二十代のころの自分だったら手に取らなかった気がします。読みはじめてすぐに自分がこれまで読んできた内容とはちがう雰囲気だなと感じました。だけど、装飾をひっぺがすと芯の部分には、読書好きゆえの熱のこもった真っ当な批評精神が垣間見え、その言葉の強さにこちらも文章を書いてみたい気持ちにさせられます。内容について使える使えないとかではもうありません。文章も真似できるはずがありません。だけど創作をしたい気持ちにさせてくれる。それだけで僕にとってはとても大きな存在の本。歳を重ねてからそういう本に出会う機会が増えました。食わず嫌いの読書をしなくなったからこその出会いだといえます。
    これはべつに読書や文章を書くことだけではありません。とりあえず興味のあったことはやってみる。べつに三日坊主でもかまやしない。逆説的ですが、何でもやってみることでやらなくていいことが見つかります。やりたいことを見つけるためにやるのではなく、やらなくていいことを見つけるためにやってみる。そうして残ったものがやれること。たくさんのやれないことか見つけ出したやれることを細々とやっているうちに、今までとはちがう面白いものができあがったらこっちのもんです。面白いものなら続けられる。自分以外の人が面白いと言ってくれるようになったら、それはきっと仕事にもなるはずです。

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