信頼関係はなぜ重要か―人を信頼することの意味

信頼なしには生きられない
 よく考えるまでもなく、あるいは、あまりに当たり前すぎて、日頃反省することもないのだが、人は他者を信頼しなければ一時も生きていくことはできない。運転手が何の過誤もなく運転すると信じることができればこそ電車にもタクシーにも乗ることもできるのである。このような信頼関係が崩れ、大きな事故が起きることはたしかにあるが、そのようなことがいつも起きるわけではない。

 われわれが日常的にその中にある対人関係においては、信頼関係が崩れることによって、大きな出来事が瞬時に起こるわけではない。しかし、対人関係も、信頼があるから成立するのは明らかである。大人と子どもが諍う度に子どもが家に帰ってこなかったり、つまらない授業をした次の日に子どもが登校しないというようなことがあれば大変である。人と人が信頼していればこそ、このような心配をしなくてもいいが、一時的であっても、信頼の欠如は、関係を悪くすることはあっても、よくすることはない。

信頼できない時
 人が人を信頼するとは一体どういうことだろう。すべてが明々白々に知られているのであれば、信じる必要はない。信頼するとは、目下起こっていることや、これから起こることについて未知なことがある時、その知られていないことを主観的に補完することである。直接の知識、あるいは信じる根拠がある時にだけ信じるのは「信頼」とはいえない。

 無論、これはビジネスの場面でのことではない。返済の見込みがなければ、銀行はお金を貸さない。便宜上言葉を区別するならば、通常いわれる「信用」は、根本的に不信を前提にしているということができる。しかし対人関係の中にあっては、例えば、子どもが明日からは勉強するといっていたのに勉強しなかった時、信頼を裏切ったと、子どもとの関係を切ることはできない。

 未来のことについては、何が起こるかわからないので、信頼できないということがあるとしても、それでは現在の事実であれば、不信の余地はないのだろうか。 実のところ、大人は子どもの「ありのまま」を見ていないのである。子どもがある日勉強を突然やめた時、日頃から勉強する子どもであれば、今日はたまたま勉強しなかったが、休むことも必要であると大人は思ったり、今日は例外であって、今後も勉強をしないとは思わないだろう。

 しかし、同じように勉強をやめたとしても、日頃から勉強に熱心でないと大人が見てきた子どもであれば、今後も同じことが続くのではないかと思うかもしれない。たとえ今は勉強していないだけであっても、この先ずっと勉強しないという判断をするかもしれないし、その際、子どもが「明日は勉強する」といっても、信じることはできない。

 このように大人は「事実」を見るのではなく、事実に「意味づけ」をしているのである。大人は子どもについて、この子どもは信じられない、と思えば、この思いから子どもの行動を見るので、子どものどんな言動も、不信を強化こそすれ、子どもを信頼する方向には作用しない。

 レインは、今見てきた意味づけについて「属性化」という言葉を使う(1)。子どもは、常に大人が納得できる言動をするわけではなく、思いもよらないことをいったりしたりする。問題行動のことだけではない。子どもは成長につれて親が思いもよらないことをする。大人はそのような事態を受け入れられるような意味づけをする。そこで、例えば自分に叛こうとする子どもも、実は、親である自分のことが好きなのだという(恣意的な)属性化をする。

 したがって、大人が子どもを信頼できないのは、子どもがいうことが未来のことだからであるというだけではなく、現在の事実の意味づけが不信へと導く。

子どもが大人の信頼を裏切る時
 大人が子どもを信じられない時、子どもの側には一体何が起こっているのだろう。これまでのところでは通常のいい方にしたがって、大人が子どもを信じられないような出来事があって子どもを信じられなくなると書いてきたが、不信は二重の意味で因果的に見ることはできない。

 まず、子どもはあえて大人が自分を信じられないようなことをしているのである。端的にいえば大人の注目を引くためである。子どもは大人から認めてほしいと思い、家庭や学校という共同体への所属感を持ちたい、と思う。ところが建設的なことでは所属感を持てなければ、不適切な言動によって大人の注目を引こうとする。

 次に、子どもの方も大人が子どもに対して持つのと同じだけの不信感を持つことがある。もとより、子どもは最初から大人に不信感を持たない。ところが、いつの頃からか、大人の言葉を信じられなくなる。なぜか? 一つは大人の言行不一致である。子どもは大人が正論を振りかざして説教する時に、その大人の行動に目を向ける。ところがその大人が自分に強制するその当のことをできていないではないか、と子どもは思うのである。

 また、大人は自分を大人が望むような子どもにしたいと考えていることを知っているからである。しかし大人の期待は、子どもの課題についての期待である。大人が子どもに勉強してほしいと期待しても、勉強をする、しないことの結末は子どもにだけかかり、その責任は子どもしか果たすことはできないという意味で子どもの課題である。

 それならば、親が子どもを信じるといっても、親の側の一方的な期待でしかないことになってしまう。電車やタクシーに乗ったりする時に何かあっても、その結末は自分にのみ降りかかるが、子どもとの信頼関係が問題になる場合は、結末は大人には降りかからない。子どもは、自分の課題にまで大人に口出しされたくはない。大人が子どもへの期待が子どもの課題に関わることであることを知っていれば、問題は大きくはならないが、大抵、大人は子どもの課題に口出しすることが自分の仕事だと思っている。

 このように、子どもが大人の言行不一致や、大人が自分の課題に介入しようとしていることを知ると、大人の言葉を素直に聞いて言葉そのものに耳を傾けるよりも、言葉の裏にある心理を忖度するようになってしまい、言葉はもはやそのままでは信じられなくなる。

なぜ信頼は必要か
 信頼関係を築くことはなぜ大切なことなのだろう。大人に不信感を持っている子どもは、世界全般に対する信頼感を欠いている。この世界は危険なところであり、まわりの人は隙があれば自分を陥れようとしている敵である、と考えているのである。そのような子どもは、他者に役に立つことをしようとはしないので貢献感を持てず、そのため、自分のことを受け入れることができない。かくて、自分への信頼、即ち、自信を持つことができないのである。

 アメリカのある学校に問題の多いクラスがあって、二人の教師が続けて担任を降りるという事件があった。そこで校長はその年の採用試験で不採用になった教師に電話をし、このクラスを学年末まで受け持ってくれたら翌年は専任講師として採用するという話をもちかけた。もちろんその教師はこの話を受けた。

 校長はこのクラスのことをわざと話さなかった。一ヶ月が過ぎた頃、校長がこのクラスの見学をした。校長は生徒が人が変ったように勉強に打ち込んでいることに驚いた。授業の後担任にねぎらいの言葉をかけた。するとお礼をいいたいのは私の方です、と担任はいった。新任の私にこんなすばらしいクラスを受け持たせてもらえたのですから、と。「礼をいわれる資格は私にはないんだ…」「ああ、校長先生が私に隠していた小さな秘密のことなら最初の日に私は見つけてしまったんですよ。引き出しの中をのぞいたら生徒のIQのリストがあったのです。正直大変なことになったと思いました。こんなに頭がよくて活発な子どもを授業に引きつけておくには相当頑張らないといけないといけませんから」。引き出しを開けるとそのリストがあった。それには生徒の名前の横に136,127,128…と数字を書いてあった。それを見て校長は叫んだ。「これはIQなんかじゃない。生徒のロッカー番号だよ」 オハンロンは次のようにいっている。「だが、時すでに遅し。この新任教師は生徒が優秀だと思い込み、生徒も彼女の積極的な働きかけと期待に精一杯答えたのだ」(2)

 信頼は、信じる根拠のない時ですらあえて信じることである。たとえ他者への信頼を裏切っても自分のことを信じる人がいれば、そのような人を裏切り続けることはむずかしい。自分を信頼する人がいることを知れば、子どものこの世界への見方は変わる。このことを可能にするために、子どもにアドラーのいう「仲間」として対峙したい(3)。

信頼の回復
 それではどうすれば信頼関係を築くことができるだろうか。アルフォンソ・リンギスは、信頼は、未知なるものの中へ飛び込むことである、といっている(4)。子どもが明日から勉強するといっても、大人はそういう子どもを信頼することができない。なぜなら、その言葉はこれまでに幾度となく聞いてきたからであり、その度に落胆を繰り返してきたからである。そのような大人にとって、子どもが勉強するといい、実際に勉強することは「未知」のことである。子どもを信頼するには、未知へと飛び込む勇気が必要であり、そのためには子どもについての見方を変えることから始めなければならない。

 どうすればそのようなことができるだろうか。子どもの言動を、いわば点的に見るのではなく、そこに目標に向けた流れを見ればいい。そして、言動には、悪意ではなく、必ず「よい意図」がある、と信じるのである。

 このよい意図の「よさ」は親にとっての「よさ」ではない。教育、育児の目標は自立の援助である。信頼はその自立を援助するために必須である。課題をしっかりと分離し、子どもが自力でできることであれば、子どもを信頼し、手出し、口出しをしないで、自力で課題を達成できる、と信頼したい。

 実際には子どもの方も自力で成し遂げることができるという自信がないということもあるかもしれない。大人から見て子どもが自力では課題を達成できないと見えることもある。そんな時も、子どもは自分の課題に口出しされるよりは、大人から信頼されていると思えれば、子どもは課題に取り組もうとする勇気を持つことができる。それでも何とかしたいというのであれば、「何か手伝えることがあったらいってね」というようにいうしかないが、もしも何もいわれなければ何もすることはない。このようにして課題の分離は自立を支援する。そのために信頼が必要だが、不当に大人が子どもの課題に介入しないことが、信頼関係を生むことになる。

 子どもが自力で課題に取り組めるまでにはなおほど遠いということもあるだろう。多くの場合、子どもの現状は最善ではない。決して「あるがまま」でいいとはいえないこともある。しかし、まずは現状を認めるというところから出発するしかないのではないか。フロムは、人のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在、他の誰かに代えることができない存在であることを知る能力を、「尊敬」(respect.ラテン語のrespicioが語源)といっている(5)。信頼は、この意味での尊敬から始まる。ところが大人は子どもを等身大では見ない。過剰な期待をするか、過小評価をする。子どもはそのために勇気をくじかれ、自分自身への信頼を持てなくなってしまっている。そのような子どもを勇気づけるには、「あるべき」子どもではなく、(現に)「ある」子どもを認めるところから始めるしかない。

信頼して語る
 以上で、信頼について、不信が起こる機序から始めて、なぜ信頼関係を築くことが必要か、そのためにどうすればいいか見てきたが、最後に普段の生活の中にあって、心を読まないように援助することが必要であることを強調しておきたい。信頼するというのは、言葉が発せられていないことを最善と見ることではない。逆説的に聞こえるかもしれないが、相手を信頼して黙るのではなく、むしろ、言葉によるコミュニケーションを対人関係の中心に据えることが、信頼関係を生むのである。言葉を額面どおりに受け取らず、心理を忖度するのは、対人関係の望ましいあり方であるとは私は思わない。

【文献】(1)R.D.レイン、『自己と他者』志貴春彦、笠原嘉訳、みすず書房、一九七五年

(2)ビル・オハンロン『考え方と生き方を変える10の法則』主婦の友社、二〇〇一年

(3)岸見一郎『アドラーを読む』アルテ、二〇〇六年

(4)アルフォンソ・リンギス『信頼』青土社、二〇〇六年

(5 )エーリッヒ・フロム『生きるということ』佐野哲郎訳、紀伊國屋書店、一九七七年

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