自分の人生を生きる
自分の人生を生きる
『アンナ』というドラマは、嘘をついたことがきっかけになって、別の人の人生を生きることになった人の話です。「真理は単純で嘘は複雑」というセリフが出てきますが、嘘はつき始めるとキリがありません。
外的なことについては、自分が生きることになった人がどんな人生を生きてきたかはわかりますが、その人の交友関係についてまではわかりません。そこで、その人の悪評まで引き受けることになります。
これはドラマですが、他者の人生を生きている、あるいは、生きようとしている人がいます。他者の期待を満たそうとしている人です。自分でもそのことに気づいていないことがあります。
親は早い時期に子どもの人生のレールを敷こうとします。親にしてみれば、これは子どものためなのですが、実際のところは、親の虚栄心かもしれません。いい学校にやらせたいというようなことを考えて、勉強させるのです。
子どもは、親が生きてほしいと願う人生を自分で選んだと思い込んで生きることになります。目の前には親が敷いたレールしかないからです。
ところが、ある日気づきます。これは自分が望んでいる人生ではないのではないか、と。そのことにいつ気がつくか、何をきっかけに気づくかは人によって違います。もちろん、気がつかない人もいますが、親が決めた人生ではなく自分の人生を生きようと思うと、問題が起きます。
まず、どんな人生を生きたいのか実は自分でよくわかっていないこと気づくのです。もう一つは、自分の人生を生きようとすると、親を始めとして周りの人が反対することです。
一般的な人生を生きる
他者の人生を生きるということの意味は、今見たように、他の人の期待を満たそうとして生きることだが、もう一つの意味は一般的な人生を生きるということです。
多くの人は、他ならぬこの「私」として生きていません。エーリッヒ・フロムの言葉を借りると、多くの人は「人間」ではなく、「ひと」として生きています。「ひと」はドイツ語ではmanといいます。一般的な人、誰にでも取り替えられうる人のことです。企業が求める「人材」も「ひと」です。若い人は人材として自分を売り込もうとします。
なぜ自分の人生を生きようとしないのか
自分の人生を生きていいいはずなのに、そうしないのはなぜか。自分の人生を生きないでおこうと決心しているからです。自分の人生を生きようとすると、責任が伴います。自分で選んだ人生であれば、思っていたような人生にならなくても、その責任は取らなければなりません。親から反対されて好きな人と結婚しなかった人が、結婚生活がうまくいかなくなった時に、親のせいにします、親の考えに従ったことは忘れたかのように。
こうして、自分の人生を生きられないことを残念に思うといいながら、実は自分の人生を生きないことを自分で選んでいるのです。
自分の人生を生きるためには何が必要か
孤独を恐れない
まず、他者の声ではなく、自分の声を聞かなければなりません。他の人がいうことに耳を傾けなくていいということではありませんが、他者の大きな声に自分の声がかき消されてしまいます。あらゆるところから押し寄せる意見や考えに長らくさらされていると、自分で考えているのではなく、そう思っているだけで、実際には他の人の考えを無批判に受け入れているだけということになります。親の反対を押し切って選んだはずの人生であっても、世間の常識に影響されて選んだだけということもあります。
自分の人生を生きるためには、他者の声に妨げられないで自分で考えとかなければなりません。しかし、そうすると多くの人とは考えとは異にすることになり、その結果、孤独になることもありえます。孤独を恐れていれば、自分の人生を生きることはできません。
sachlichに生きる
次に、sachlichに生きることです。sachlichというのは、事実、現実という意味のSacheから派生する形容詞です。sachlichに生きるとは、「即事的、現実的に生きる」という意味になります。
その一つの意味は、人からどう思われるか気にしないことです。他者からよく思われよう、他者の期待を満たすために生きようとすれば、本当の自分ではない自分を生きることになります。他者の期待に合わせ人からどう思われようと気にしてばかりいれば、自分の人生を生きることはできません。自分の人生なのに、他者の人生を生きることに意味はありません。
自分を受け入れられないことの何が問題か
他者の期待を満たそうと思ったら、本当にしなければならないことをできなくなります。上司や職場の不正を見逃すことを期待されていると思い、その期待に応えようとし自己保身に走るような人生は納得のいく人生といえるでしょうか。
なぜ他者の期待に合わせて生きるようになったのか。子どもの頃からこのままの自分ではダメだと、親を始めとする周りの大人からいわれ続けてきたからです。
精神科医のレインは、「属性付与」という言葉を使っています。他者は、例えば、「お前は賢い」とか「お前は優しい」というような属性を付与するのですが、子どもの場合は、この属性付与が事実上命令になります。「お前は賢い」というのは、「賢くあれ」という命令であり、子どもはその命令を拒むことができません。
その命令に従う子どもは勉強するでしょうし、その結果、親の(自分ではない)望む学校に入れるかもしれませんが、自分の人生を生きることにはならないのです。
親に背けば親は落胆するかもしれません。しかし、それは親が自分で何とかするしかありません。何も考えないでただ勉強すれば、成功するかもしれません。はたして、それでいいのかよく考えてほしい。
自分の価値を認める
ありのままの自分を認めるというと、向上心がなくなるという人はいます。しかし、まずは自分を受け入れないないと次の一歩を踏み出すことはできません。というのも、今の自分がダメだと周りの人からいわれてきた人は、自分のことが好きになれないからです。
「自分に価値があると思える時にだけ勇気を持てる」(Adler Speaks)
自分が好きになれないと自分に価値があると思えません。そうすると、勇気を持てない。自分に価値があると思えれば勇気を持てるとアドラーはいっています
勇気には二つの意味があります。一つは、仕事や勉強に向き合う勇気、もう一つは対人関係に入っていく勇気です。
なぜ勇気が必要かといえば、結果が出るからであり、対人関係においては、他者と関わることで自分がよく思われないとか傷つくがあるからです。そこで、課題から何らかの理由を作って逃げようとする。
前者の勇気についていえば、自分には価値がない、つまり能力がないから、仕事や勉強という課題に取り組もうとしないのではない。結果が出ることを恐れるので、課題に取り組みたくないが、課題に取り組まない理由が必要である。それが自分には能力がないということである。
後者の勇気についていえば、対人関係の中に入って傷つくことを恐れる人がいます。そのような人が対人関係に入らないための理由が必要です。それが自分には価値がないということです。自分でも自分のことが好きになれないのに、どうして他の人が自分を好きになってくれるであろうかと考えるのです。
課題に取り組む勇気を持つために
課題に向き合った時に帰結する結末を自ら引き受ける勇気を持ってほしい。
課題に向き合った時に、怖いことばかり起こるわけではありません。課題に取り組んだ時、思うような結果を得られないことがあります。しかし、もしもそうであれば努力すればいいだけのことです。対人関係は悩みの源泉ですが、それはまた同時に幸福の源泉でもあります。
また、ありのままの自分が好きになれないので、特別にならなければならないと思うのも問題です。親の期待に添えない時、問題行動をする人がいます。そうすれば親から注目されるからです。
自分の身体を痛めつけて、親に抵抗する人もいます。。そんなことをしなくても、ただ「私はしたくない」「私は自分の人生を生きる」といえばいいだけだ。しかし、そんなこといって親を傷つけたくないと思う。そうだとしても、親が自分で何とかしなければならないのであって、子どもが考えることではありません。
自分の人生を生きたいといったところで、すぐに受け入れられないかもしれません。親子の関係にひびが入るかもしれません。親から嫌われるかもしれません。しかし、嫌われるということは自由に生きるために支払わなければならない代償であり、自分が自由に生きていることの証です。
「嫌われる勇気」という言葉が一人歩きしている感がありますが、人の気持ちを考えなくていいとか、傍若無人に振る舞っていいという意味ではありません。あまりに人の気持ちがわかりすぎて、いいたいことがいえない人こそ、他者から嫌われることを恐れないで、自分の考えをはっきりと主張してほしい、そう思って『嫌われる勇気』の中で哲人に語らせた言葉なのである。この勇気を持たなければ、自分の人生を生きることはできません。
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