子どもの課題に介入せず援助する

 子どもが勉強しなければそのことの結末は子どもにのみ降りかかり、そのことの責任は子どもしか取ることはできません。勉強はこの意味で子どもの課題ですから、自分の課題にいきなり踏み込まれたら、たとえ正論でも、あるいは、正論だからこそ子どもは親に余計に反発したくなるものです。子どもが親の期待するほど勉強していないという場合に「勉強しなさい」といえば、子どもは多くの場合、親にいわれなくても自分でも勉強すべきだと思っていますから、素直に「勉強する」とはいえなくなります。親にいわれて勉強し、さらに勉強をしていい成績を取れば、親に負けることになるからです。

 子どもだからといって、子どもの課題に土足で踏み込めば、親子関係は悪くなります。自分の課題に踏み込まれた子どもがそのことに抵抗すればいいのですが、親に進路を決められた子どもが後に行き詰まった時に、そのことを親のせいにすることもあります。

 このようなことにならないためには、子どもの課題であれば、何も口出しをしないのが一番簡単です。しかし、本来子どもの課題であっても、親の援助が必要なことは勉強に限らず多々あります。子どもを援助するとすればどうすれば適切に援助できるかを考えなければなりません。

 自分の大切な友だちが困っているとしたらどうするかを考えれば、どう対応すればいいかは自ずとわかります。知らない人であれば、困っていても見て見ぬふりをするかもしれません。しかし、困っているのが大切な友だちであれば、手を拱いて何もしないということはありません。「困っているようだけど、何か私にできることある?」というふうにたずね、その上で、もしも援助の依頼があれば、できるだけの援助をするでしょう。このように、友だちであれば相手の課題に土足で踏み込むようなことはしません。親子と違って適度な距離があるからです。

 しかし、子どもの課題には一切口出ししない、子どもの課題であれば必ず子どもにやらせるべきだとあまりに教条的に考えてしまうと、親子関係を窮屈なものにしてしまいますし、そもそも子どもの課題であれば、それを親が「やらせる」のはおかしいでしょう。
 介入と援助とは違います。子どもの課題に介入するのは、子どもが自力で自分の課題を解決できると親が信じていないからです。「勉強しなさい」といわなければ子どもは決して勉強しないと思っているのです。また、子どもの勉強は親の課題であると何の疑問の余地なく信じている親は、子どもの課題に介入しているという意識すらありません。それほど親子関係の距離が近いといえます。

 他方、援助する親は、子どもは基本的には自分の課題を自分で解決できると信じています。その上で、何か援助が必要であればいってほしいといい、援助の依頼がなければ何もしませんが、依頼があれば可能な限り援助します。

 一般の対人関係についても、立ち上がるのに難儀をしている人を見た時に、さっと手を差し伸べることが、相手の自立心を損なうことになるとは思いません。援助された人も、差し出された手を握って立ち上がったからといって依存的になるわけではありません。課題の分離は最終目標ではなく、誰の課題であるかを知った上で協力して生きることが最終目標です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?