子どもたちを守らねば

 他者は「敵」であって、自分は「敵国の中に住んでいて、いつも危険にさらされている」と感じている子どもがいる、とアドラーはいう(アドラー『個人心理学講義』六三頁)。

 アドラーは、人間は外からの影響に受動的に反応する存在(reactor)とは考えていないのだが、可能な限り子どもが他者を敵と見なすようになるような影響を受けないことが望ましい。大人が子どもにとって反面教師になるということはあるが、できれば正しい情報を与えたい。

 「ある四歳の子どもが、劇場で上映されたおとぎ話を見た。後年になっても、この世には毒の入った林檎を売る女性がいると信じていた。多くの子どもたちは、主題を正しく理解できない。あるいは、あまりに大ざっぱな概括をしてしまう。子どもが正しく理解するようになったと確信するまでは事柄を説明するのは親の課題である」(アドラー『子どもの教育』一六一頁)

 子どもの遊ぶおもちゃやゲームについても、おもちゃの武器や戦争ゲームはいけない。また、英雄や戦いを賛美する本もいけない、とアドラーはいう(アドラー『子どもの教育』一五六頁)。

 「普通の新聞についていえば、準備されていない子どもたちに、人生について歪んだ見方を与えることになる。子どもは、われわれの人生のすべてが殺人や犯罪や事故で満ちていると信じるようになる。事件の報道は、特に幼い子どもたちにとって気を滅入らせるものである。われわれは大人たちの発言から、子どもの時にどれほど火事が怖かったか、どのようにしてこの恐怖が彼〔女〕らの心を悩ましたかを見て取ることができる」(アドラー『子どもの教育』一六一頁)

 ここでアドラーがいう「普通の新聞」というのは、大人のために書かれ、子どもの見方をしていない新聞のことである。

 昨今の子どもたちを巻きこむ事件の報道を見るにつけ、私は、そのニュースを見た子どもたちが他者を敵と見なし、この世界が危険なところだと思うようにならないか危惧する。

 外の世界は危険なところだといえば、それを理由に外に行かなくなるかもしれないし、実際に外に出て行かなくなることはないにしても、積極的には人と関わろうとはしなくなるかもしれない。たしかにこの世界は「薔薇色の世界」(アドラー『子どもの教育』八九頁)ではないし、事故や事件、災害はある。子どもたちの安全を確保するために必要な予防はしなければならない。しかし、それにもかかわらず、過剰な不安を煽ってはいけない。犯罪、事故、災害が世の常であると思わないように子どもたちを援助したい。

 「子どもたちが免れるのが望ましい外からの影響」(アドラー『子どもの教育』一六一頁)だけが問題ではない。子どもたちが他者を敵と思い、この世界を危険なところだと見なすようになる大きな要因は、学校や家庭での大人の子どもへの関わり方である。

 大人がついカッとして子どもを叱るとか、叱らないわけにはいかないと思っている限り、大人のそのような対応を見て育った子どもたちは、言葉を重視せず、感情的になり、力を使った安直な問題解決を学んでしまうようになる。もちろん、先にも見たように、大人が反面教師にあることはありうるが、力を使うこと、生命を軽視することなどは大人の影響によるところが大きいといわなければならない。

 アドラーは迂遠ではあっても、教育によって自分のことしか考えない、自分さえよければよいと考えるのではなく、他者のことを考えられるような子どもを育てようと考えた。そのアドラーの願いが今日実現しているかといえば、手放しで肯定できないことが残念でならない。

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