いやなことはいやといおう

誰も経験したことがない関係
 アドラーは1870年生まれですから、大昔の人であるわけではなく、明治生まれのおじいさんですが、その教えは時代を一世紀先駆けしているといわれることもあるように新しく、未だに時代はアドラーに追いついていないように思えます。
 アドラーの教えは日本人が聞くと西洋的といわれ、欧米人が聞くと東洋的といわれることがあります。要は、アドラーが説いていることはいまだ人類が一度も経験していないからこそ、このようにいわれるだと考えています。
 その教えは、端的にいえば、「誰も支配せず、誰にも支配されない対等の関係」であるということです。

sachlichに生きるということ
 アドラーはunsachlichという言葉を使って、人生との連関、現実との接触を失った生き方について問題にしています。unsachlichは、事実や現実(Sache)に即していないという意味です。反対に、sachlichは、事実や現実に即しているという意味です。

どう思われるかを気にする
 現実との接点を接点を失うケースはいくつかありますが、そのうち一つは、自分が人からどう思われるかを気にすることです。自分が人にどんな印象を与えているか、他の人は自分のことをどう思っているかということばかり気にしていると、現実との接点を失った生き方をすることになる、とアドラーはいうのです。
 「実際にどうか(Sein)よりもどう思われるか(Schein)を気にすれば容易に現実との接触を失う」

人に嫌われるということ
 いつか息子にこういわれたことがありました。
「君はそんなに人から嫌われるのが怖いのか」
 その時、私は息子が人から嫌われることを恐れていないことを知って大いに驚いたのを覚えています。
 人に嫌われたい人はないでしょうが、人に嫌われたくがないために、常に他者の顔色をうかがい、自分の考えを曲げてまで他者に合わせてしまうと、自分のではなく他者の人生を生きることになってしまします。嫌われることを恐れず、他者に迎合せず、自分の生き方を貫くということが、自由に生きるということです。

髪を赤く染めた大学生
 ある時、学生が声をかけてきました。しばらく学校にこられなかったというのです。聞けば、一週間、休んだというのですが、一週間学校にこなかったからといって、そのことが何か特別の問題であるというふうには私には思えませんでした。
 ところがよく聞くと、学生はこう打ち明けたのです。学校には行けなかったが、母親が学校には行くものだというので家にはいられなかった。さりとて、学校には行けず、結局、家と学校の中間地点にある公園や喫茶店で昼間過ごし、夕方何食わぬ顔をして家に帰るという日が一週間続いたというのです。
 学校に行かず講義を受けなければ当然授業に遅れ、学業に障りが出るでしょうが、それは学校に行かないことに伴う責任であり、その責任は自分で引き受ければいいのです。遅れた分を何とか取り戻す必要はありますが、親が家にいてはいけないというからといって必ず親に従わなければならないわけではありません。それなのに、親に従ったということが私には不思議に思えました。

課題の分離
 学校を休んでいいといっているわけではありませんが、学校に行く、行かないかは親が決めることではなく、子どもが決めてもいいという話を私は学生にしました。学校に行かないとすれば、そのことの結末は子どもにふりかかり、その責任も子どもが引き受けなければなりません。学校に行く、行かないかを決めるのはこの意味で子どもの「課題」です。
 「自分で決めたらいいのだよ」
と私はそういいながら、小学生の頃、母とのこんなやりとりを思い出しました。ある日同級生が電話をかけてきました。これから遊びにこないかという誘いの電話だったのですが、私は近くにいた母にたずねました。
 「これから遊びに行っていい?」
 母は私にいいました。
 「そんなことは自分で決めてもいいのだよ」
 いつもこれは誰の課題かをはっきりと分けて考えなければなりません。この学生はわかっていなかったわけですが、親の方も課題の分離について理解していなかったかもしれません。
 対人関係の問題はその多くが誰の課題かが理解されておらず、人の課題にいわば土足で踏み込むか、もしくは踏み込まれることから起こります。
 親は子どもが勉強しないのを見た時、当然のように「勉強しなさい」といいますが、勉強する、しないは子どもの課題なので、そのようにいってはいけないし、いえないのです。
 もしも子どもの勉強に口出しをしたいのであれば、それは本来子どもの課題なのですから、手続きを踏んで親と子どもとの共同の課題にしなければなりません。
 「最近のあなたの様子を見ているとあまり勉強していないようだけど、そのことについて一度話し合いをしたいのだけど」
 当然、多くの子どもは親からのこのような申し出を拒否するでしょう。
 「事態はあなたが思っているほど楽観できる状況だとは思わないけど、またいつでも相談に乗るからその時はいってね」
と引き下がるしかありません。

甘やかし
 いつか息子に(当時、小学生だった)「<甘やかし>って何かわかる?」とたずねました。少し考えた後、息子はこう答えました。
 「頼まれもしないことをすること」
 これはたしかに当たっていると思い、息子の言葉を書き留めたことを覚えています。
 親は子どもから頼まれもしないのに、こういうことをして子どもを支配しようとするのです。しかも、「あなたのためを思って」というようなことも付け加えます。子どもは、このような親からの干渉に対して断固抗議し、親の介入を拒否すべきです。

責任を取りたくない
 ところが、先の学生は親が家にいてはいけないといった時、親に従ってしまいました。なぜでしょうか? そうしたことには「目的」があります。それは端的にいえば、自分の行動の選択に責任を取りたくないということです。

親の支配から脱する
 先に見たように、学校に行かないことによって発生する不利は自分で引き受けるしかありませんが、学校に行かないという決心をしたのに、親が行けといったから行くと決心するのは、自分の行動に責任を取ろうとしないということです。
 当然、親に逆らえば、親からの抵抗は大きくなり、親は怒ります。しかし、親が反対すればいつも親のいうなりになるというのでしょうか。
 親が自分の子どもが自分が望む人と結婚しないからといって感情的になるということはよくあります。誰と結婚するかは当然子どもの課題です。親が子どもの結婚に同意できないとしても、その時発生する感情の処理は親の課題であって子どもの課題ではありません。
 選択肢は二つしかありません。即ち、自分の意志を貫き、親からよく思われない、嫌われること。あるいは、自分の意志は断念し、親の期待に添い、親を満足させること。この二つです。
 理論的にはありうる第三の選択肢は実際にはありません。即ち、自分の意志を貫き、かつ、親もそのことを認めるという選択肢です。もちろん、そうなるように努力する必要がないといっているわけではありません。粘り強く親を説得すれば、親もやがて折れてくれる可能性がまったくないわけではありません。
 しかし、そもそも自分の人生なのだから、親を説得することが困難であれば、親を変えようとするよりも、親が怒ろうが泣こうが、それは親が自分で解決しなければならない課題だと割り切って、親からの圧力に屈しないということが必要になることはよくあります。
 「あんな人と結婚するのなら死ぬから」と親がいっても少しも動じることなく、「短いおつきあいだったわね」といえばいいのです。親は自分の課題を子どもに解決させることはできません。つまり、自分が嫌だからといって、子どもに結婚を断念させることはできないということです。子どもも親の課題を解決しなければならないいわれはありません。
 このような話をすると、親を傷つけるくらいなら自分の意志を断念し、親の意向に従うことを選ぶ人がいることに私は驚くのですが、そのことの目的は自分の人生に責任を持たず、うまくいかなくなった時にその責任を親に押しつけることなのです。選択することには責任が伴いますが、親の考えに従っていれば、もしもうまくいかなくなった時、親のせいにすることができることを子どもは知っているのです。
 親は子どもの人生に責任を持つことはできません。子どもの結婚を阻止してみたり、子どもに親が望む結婚を勧めた時、後でうまくいかなかった時に一体、親はどう責任を取れるでしょう。

自立
 小学生の頃、息子は首から鍵をぶら下げて登下校していました。ある日の朝、息子がいつものように首から鍵をぶら下げてないので、私は思わず、「今日は鍵を持ってないようだけど大丈夫?」とたずねました。すると、息子はこう答えました。
 「あのね、お父さんはそんなことは心配しなくていいんだ」
 親は子どもを支配したがるものですが、実は、これは親が子どもの課題にいわば土足で踏み込んでいるのであり、子どもが親のそのような介入を拒否できるようになることが望ましいのです。
 親からいつも卒業後の進路について説教を聞かされていた高校生がある日親を制していいました。
 「私の人生だから私に決めさせて」
  驚く親にさらにこういいました。
 「もしも私がお父さんの考えに従って、お父さんが行けという大学に行って、四年後にこんな大学に入らなかったらよかったと思ったとしたら、その時、お父さんは私に一生恨まれることになりますが、それでもいいですか?」
 父親は娘のこの言葉に何もいい返すことができず、子どもは自分が行きたいと思っていた大学に進学しました。 

親への反抗
 やがてこのような話を聞き、親の期待を満たすことはないということ、自分の課題は自分で責任を持って解決するしかないということを理解した私の学生はある日髪の毛を赤く染めました。
 私は驚いて思わず、「どうしたのですか」とたずねたところ、「髪の毛を染めました」と答えるので、「いえ、それは見ればわかります。さぞかしお母さんはその髪を見て怒られたでしょうね」といいました。
 「はい、母は激怒しました。それで、家では見苦しいので三角巾をつけていなさいといいました」
 「あなたはどうしたのですか?」
 「つけてました。でも三日してからなんでこんなことをしているのだろうと思い始め、三角巾をとりました」
 「どうなりました?」
 「母は何もいいませんでした」
 これで一件落着しました。この一件だけではなく、おそらく親との関係の中で、彼女が何かをしようとした時、最初は、たしかに親が「〜してはいけない」といい、それが「外なる声」として彼女の行動を規制してきたのでしょうが、やがてそれが「内なる声」になったように思います。
 つまり、親が何もいわなくても、「これはしてはいけない」と自分で自分の行動を規制するようになったわけです。
 このことには先に見たように「目的」があります。子どもにすれば親を初めとして外なる声に従う方が都合がよいのです。自分の行動、自分の選択に責任を取らないようにするというのが、外なる声に従うことの目的なのです。自分の人生なのに自分で責任を取ろうとしないのはおかしいでしょう。

言葉を使って訴えよう
 若い人たちと話をしてきて残念に思うのは、彼らが自分の身体を痛めつけたり、学校に行かないことで親やまわりの大人に自分の考えを認めてもらおうとすることです。そんなことをしてみても、若い人が思っているほどの効果はありませんし、自分だけが不利な目にあうことになります。
 神経症を治したいとやってくる若い人たちは、最初、症状が対人関係と関係があるとは思っていません。症状は心の中というより対人関係の中で起こるといえます。
 例えば、摂食障害には「目的」があります。それは端的にいうと、親といえどもこの私の体重を決めることはできないということを思い知らせることです。若い人は自分の身体を痛めつけてまで、自分が親のいいなりにならないことを主張しようとします。
 しかし、そんなことをしなくてもいいのです。無理なことを押しつけようとする大人には、ただ「いや」といえばいいのだということを私はいつも若い人に学んでほしいと思っています。

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