劣等感を超えて

 保育園に通っていた頃、祖父は折に触れて私に「大きくなったら京大へ行けよ」といっていました。もとより子どもの私がその言葉の意味がわかっていたとは思いませんが、京大というところに入れば大人が賞賛してくれるらしいということは、やがておぼろげながらわかり始めました。具体的な意味がわかったとは思いませんが、ただ一つはっきりしていたことは、京大に入るためには頭がよくなければいけないということでした。これは私が小学校に上がる前の幸せな時代の話です。
 ところが、小学校に入ってしばらくしてから、どうやら私は算数ができないということに気づきました。体育も苦手だったのですが、体育は勉強ではないので京大に入るためには大きな問題にならないと思いました。算数ができないことがはっきりとわかったのは、夏休み前の一学期の終業式の日、通知表をもらった時でした。当時は今とは違ってはっきりと五段階の数字で成績がつきました。学校から校区の外れにあった家までの三十分の間途中で何度もランドセルをおろして中から通知表を出しては成績を確認しました。そこに書いてあった算数の評価は何度見直しても「3」でした。「大変だ、こんなことでは京大に行けないではないか」そう、私は思いました。「3」なら十分いい成績ではないかという人があるかもしれませんが、「劣等感」、つまり、自分が劣っているという感じは、実際に自分が劣っていることではなくて主観的なものです。だから自分がだめだと思ったらだめなのです。
 アドラーは、劣等感は誰にでもあり、「健康で正常な努力と成長への刺激」である、といっています。劣等感があるからこそ、努力して上を目指そうと思うのです。ただし、それは、他者と比較することから生まれる劣等感ではありません。今の成績が「3」であれば、誰かと競争するためではなく、今の自分よりも前に進むためにいっそう努力すればいいのです。
 子どもがこのように思えるために親は結果だけに注目してはいけません。今の自分よりも前に進もうとすることこそに価値があるのです、だから、結果ではなくそこに至るプロセスに注目するために「頑張ったね」と声をかけることができます。勉強する子どもにもしない子どもにも「頑張れ」と声をかけてしまいがちですが、このようにいうと次も確実にいい成績を取れるという自信のある子どもでなければ、プレッシャーになります。
 また、私の祖父がしたように励ますつもりであっても今の実力をはるかに超えるような目標を設定すると、もっと頭がよければいい成績が取れるのにと考えるなどして自分の劣等感をいいわけに使い始めてしまいます。親が期待するほど頭がよくないからいい成績を取れないといって今よりもいい成績を取る努力を断念しています。何かの理由を持ち出して課題に取り組まないことをアドラーは「劣等コンプレックス」といいます。何かしらの理由を持ち出してよい成績を取れず、親の期待を満たせないと思い込みます。「本当はやればできるのに」といわれても、あるいはそういわれるからこそ、一生懸命勉強しなくなります。そのような子どもにとっては、「本当はできる」という可能性を残すことが大切で、「頑張ったのにいい成績を取れない」という現実に直面してはいけないからです。

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