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美への最短距離

シセイドウという言葉を聞くと、無条件に美しい女性を思い浮かべてしまう。手入れの行き届いた、それでいて少しも過剰では無く、生まれた時から今に至るまでずっと麗しかったのだろうなと思わずにいられないような美女を。

時代や流行に流されず、それでいて今っぽくて、クラシックとモダンを両立しているような洗練された美人。

面白いなと思うのは、私が観察して来たかぎり、どうやら「資生堂」や「花椿」という言葉からとびきりの美女を連想するのは、老若男女を問わず多くの人に当てはまると言えそうだということ。

化粧品という後天的な美しさを作るメーカーであるにもかかわらず、ここまで完璧な美を想像させる企業がほかにあるだろうか。私には思い浮かばない。

さて、そんな資生堂のイメージに相応しい女性になりたくて、思春期の頃から美しい女性たちを注意深く観察していた結果、一つの共通点に気付いた。美しく、魅力に溢れる彼女たちいつも美しいかどうかという意識を忘れない。むしろそれが染み付いている。メイクや服装、身だしなみに限らず、表情に言動、しぐさの一つ一つまで。

当たり前だけれど女子会などでも愚痴は一つだって出てこない。もちろん過去の恋人の悪口も。そんなことよりも彼女たちが興味がある対象はひたすらに美しいものや愛らしいもの、心地よいもの。こうして私は「やはり強固な美しさを作り上げるには、美しい感性が必要不可欠なのだ」と改めて納得したのだった。

私は思う。人は美しくなりたいと思った瞬間、すでにうつくしい、と。それは美に対する憧憬が作り上げる美。

もちろん各々が「こうなりたい」と目指す到達点からはまだまだ遠いかもしれないけれど、他人と比べずに己を知り、自分にとってもっとも親和性の高い美しさを探ろうと試行錯誤を始めた時点で、最短距離で美に向かって走りだせているのではないだろうか。

そして最後に言っておきたいことは、逆もまた然りだということ。どうやら美しくない言葉からは美しくない感性が生まれ、美しくない感性は美しくない表情を作るようです。

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