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すごく久々に村上春樹作品を読んだ。

タイトルの通りですが、すごく久しぶりに村上春樹作品を読みました。読んだのは「ねじまき鳥クロニクル」です。
GWに差し掛かる直前、僕が前職の同僚たちとのSlackに「GWにみんなのオススメの本を教えて欲しい」と投稿したところ、「今更ながら..」という枕詞とともに後輩からおすすめしてもらったことがきっかけです。
僕はこれまで「海辺のカフカ」と「ノルウェイの森」を読みはしたのですが、「正直よく分からんかった」という感想でしかなく、以後、村上春樹作品を再度手に取ることはこれまでありませんでした。
しかし、今回「ねじまき・・・」を読み、また、「村上春樹作品ってこういう風に楽しむといいですよ」と教えてもらい、ある種の腹落ちする感覚を得ました。
ちょっとした自分の中での驚きと感動があったため、久々にnoteでもしたためようかなと思った次第です。

村上春樹作品が好きな人や、楽しみ方を理解している人からしたら、「何を今更..」と思ったり、「ちょっと違うよ」と突っ込みたくなる内容かもしれませんが、ご容赦ください。

村上春樹作品=高尚な人だけが理解できる、ムズいもの 
と思っていた。

僕はすごく偏見ながら、村上春樹作品を、ある種の高尚な人だけが理解できる、高尚な作品だと捉えていました。
おそらく、高校生の時に「海辺のカフカ」と「ノルウェイの森」を読んで、いまいち理解できなかった苦い過去と、自分の周りの自分よりも感受性豊かな友人たちがどっぷりハマっているのをみて、「自分には理解するだけの教養がないんだな」と、村上春樹作品に自分から距離を置いてしまったことが理由と考えています。

今回、「ねじまき鳥・・・」三部作を10日ほどで読み終え、最初に残った読後感は「結局わかったようなわからなかったような、でも正直よくわかっていないけど、なんか文体が気持ちよくてさらっと読んじゃったなあ、変なの。」という気持ちのいい違和感と、
「海辺のカフカを読んだ時は高校生だったから理解できなかったのかと思っていたけど、30代になっても自分は理解できないのか。」という悔しさと、
「村上春樹が好きな人たち、通称ハルキストたちはこの内容を全部理解できているの?ヤバすぎ。」というハルキストの人たちに対してのリスペクトのような、改めて一歩引くような感想でした。

ただ、この後に記述をするんですが、村上春樹作品というものは(オススメしてくれた後輩曰く)逐一全てを理解しながら読むものではないということらしいです。
また、同じく後輩曰く、「村上春樹自身、描いてる内容全て理解出来てないらしいですよ。」とのこと。
なんだ〜安心〜〜
だったら市井の一読者が全部理解できるわけないじゃん〜〜〜

妙にリアルで、だけども全然リアルじゃない状況の、クセになる描写

僕がこれまで読んできた小説の数はそれほど多いわけではなく、そして読んできたものの殆どは、ストーリーがあり、起承転結が明瞭で、そして何らかのオチがつき、チャンチャン。というものでした。

もちろん、「ねじまき鳥・・・」にもストーリーがあって、事件が起こり、主人公が奮闘し、一応の結末を迎えるのですが、ある意味でストーリーが不親切にも、なぜそのように展開をしていくのかの因果関係の説明が十分になされないまま飛躍をしていきます。
しかし一方で、その時に主人公が何を見ているのか、周囲の環境はどうなっているのか、登場人物達はどのような状態にあって、どのような仕草をしているのかなどの情景は、これでもかというほど詳細に描写されています。そしてそれがだんだんとクセになってきます。

例えば、以下のような感じ。

部屋の暗闇の中に廊下の光がさっと差し込むのとほとんど同時に、僕らは壁の中に滑り込んだ。壁はまるで巨大なゼリーのように冷たく、どろりとしていた。僕はそれが口の中に入ってこないように、じっと口をつぐんでいなくてはならなかった。僕は壁を通り抜けているんだ。僕はどこかからどこかに移るために、壁を通り抜けている。でも壁を通り抜けている僕には、壁を通り抜けることがものすごく自然な行為に思えた。
ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編 P.169

正直、この文章を読んでいる時は、何が起こっているのかわからなかった(というか今でもなぜこのような状態になっているのか、因果関係としては全然理解をできていない)のですが、不思議と読めるし、情景として鮮明に目に浮かんでくるようです。

なお、後輩曰く、この描写は村上春樹作品の特徴の一つで、自我や意識よりも深い階層にある「集合的無意識」の状態を行き来している様子の描写であるとのことです。
ただ、僕はまだ全然「集合的無意識」のことを理解できていないので、上述の描写をざっくりと超乱暴に「個人の深層心理の深い部分」までトリップしていて、その状態から戻ってこようとしている瞬間といったん捉えています。

活字で楽しむトリップ(ことりっぷ ではない)
それはちょっと宗教にも似ているかもしれない。

村上春樹作品を読んだことがない人がまだここまで読んでくれていることを期待して説明をすると、
物語の特に重要な部分は上述のような、なんだかよくわからないけどもサラッと読めて、描写の精巧さから主人公(やその時に一人称として描かれている人)の見ている情景や感覚を自分の体験のように感じられ、ある種の恍惚や不快感をも感じられながら、でも何が起こっているかよくわからない、といった状態がずっと続きます。
そしてそのまま物語は帰結し、物語中の描写から得られた情景と感覚が脳裏や身体に残る。それこそが村上春樹作品を読む醍醐味だということらしいんです。

つまり、一人称視点で精巧に描かれ、描写される登場人物たちが何か超越したある種の“共通してみる夢”のような世界を行き来するストーリーを通じ、彼らの感覚をまるで自分の感覚のように獲得する、いわば「活字でトリップする娯楽」なんです、ということだそうです。

ちなみに、僕は先程引用した文章を通じて、少しひんやりした仄暗い緑色の、粘度の高い液体にどぷんと浸かり、渦のようなものに巻き込まれて別の領域に遷移していくような感覚を味わいました。
他にも、「ねじまき鳥・・・」の中のいくつかのシーンはまるで自分が見て触れたかのような妙なリアリティを伴って僕の身体に残っていますし、それがなんとなく心地いい感じがしています。

このように、村上春樹作品の楽しみ方がトリップに近いものだとすると、例えばサウナや瞑想にも近い体験なのかもしれないですし、ある意味で宗教にも近い体験なのかもしれないなと感じました。
昔、友人と清水寺に訪れたとき、何気なく目を閉じると木魚の音と読経がスッと耳に入ってきて、突然、参拝客の喧騒から離れた別の場所、何か透明な膜の内側のような場所に入り込めたような奇妙な感覚を得、その時に「お経気持ちいい〜〜」と感じたことを覚えています。

おそらく宗教の儀式等は、自分の貧弱な経験や書籍・漫画・友人の体験談などを参考にするとトリップ体験を再現しているパターンが多くあると理解をしており、そういった儀式から得られる感覚と、村上春樹作品から得られるそれは、どこかで酷似しているのかもしれない、と漠然と感じています。
今回「ねじまき鳥クロニクル」を読んだ直後は、まだこうした楽しみ方を心得ていなかったのですが、後輩や他の村上春樹好きの友人にオススメされるがまま、いくつかもう少し読んでみようかと思います。(もしかしたら彼らほどにはハマれないかもしれませんが)

もし、村上春樹作品以外で、こうした楽しみ方ができる作品、特に漫画でこういったものがあれば、ぜひ教えていただきたいなと思います。


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