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飲食店の内/外

今日は珍しく家で完全に一人の日だったので、今週末に発売されたゼルダの新作を夜までプレイした後、一人で家の近所の牡蠣がウリのお店に飲みに行った。
そこはもともとは今の場所から徒歩で10分くらいの古ぼけた商店街にあった店なんだけども、商店街が閉じるタイミングで閉店して、今の場所(ウチから徒歩数分の場所)に移転して一年くらい経つ店だ。
店内はめちゃくちゃ小さくて、着席で8人も座れば窮屈なくらい。今日は店主一人と、客が僕を入れて4人で、一つのテーブルを囲んで全員で相席するというスタイルの営業だった。
全員がその店の常連で、そのうちの一人が偶然僕の出身高校の隣の高校だったという縁もあり、暖かく迎え入れてもらい、4時間ほど飲みながらクラフトビールの話や攻殻機動隊の話、Y2Kの話などをしながら楽しく時間を過ごして帰ってきたところである。

元々僕は移転前に2回ほど行ったことがあり、移転後も開店直後に一度行ったことがあるのだが、決して馴染みの店というわけではなく、ほぼ新規の店だ。なので、少し今日は緊張しながら行ったのである。
なぜ飲食店に行くだけで緊張をしたかというと(実際に今日行く前にお店に電話をしてから行ったのだが、その電話をするのにも5分ほどためらっていた)、その店にとって僕が"外"から来た新規の客で、その店にまだ歓迎されていない存在であることを認識していたからである。

先月に、実は一度その店で食事をしようとして訪れたことがある。
しかし、その日はすこし特殊な営業の日で、予約していないと入れない日だった。(確か店主が次の日の早朝からどこかに行くとかで早めの店じまいをするというのが理由だった気がする。)僕は店の前まで行ったものの、残念ながら店に入ることが出来ずに退散を余儀なくされた。
その時に、なんというか、自分がその店のその時の空気に歓迎をされていない、要するに「今この瞬間にこの店の空気に入ってきて、空気を乱すことを許されていない」ような感覚を得たのをおぼえている。
もちろん、営業スタイルの都合もあったのだと思うが、僕という存在をその瞬間に店は許容しなかったのである。
しかし、それは意地悪とかそういったことではなく、お互いに居心地の悪い思いをしないための予防線が張られていたような、そんな感覚だ。
なんとなくその日は、「今日僕はこの店の内側に入ることは出来ないだろうな」と感じ、仕方がないとして退散をしたのである。
この、内という感覚と、その対となる外とは何か?その概念を生む大事な要素として、お店が「客と店」という立場の線引きをどれだけ作っているかが関わってくると思う。

僕が今日行った店などは、店における内/外の概念がすごくはっきりしているように感じる。店の敷居をまたぐと、そこは店の内であり、店という空気を一緒に作って楽しんでいく重要な要素の一つとして振舞うことが重要になる。そこには一般的な飲食店において客同士を隔てる席という概念が薄く、全員で一つのテーブルに座り会話をしながら楽しい時間を一緒に作っていく仲間としてみなされる。いくつかの議題を行ったり来たりしながら、その時の瞬間を最大限心地よく楽しむことを全員が追い求めるのである。
こういった光景はいわゆるチェーンの居酒屋において見受けられることは無く、個人経営の小さい店で見かけるものだ。
僕は今日、その店の中での時間を楽しみながら、一体この瞬間は何で、何によって実現しているのだろう、と考えていた。その一つが、先ほど上述した通り、客と店という線引きにあるのだろうと思う。

今日の店の店主は、店員というロールを持った役回りではなく、その店をやっている一人の人間として存在していたように感じる。客とため口で会話をしながら、自分も酒を飲み、いろんな会話をしているのである。そこに、いわゆるチェーン店における「店員らしさ」といったものは微塵もない。そして、我々もいわゆる客として振舞うのではなく、飲みの場を構成している一つのピースとして振舞っていることに気が付く。これは何かと分析すると、客と店という線引きが無く、同じ対等な存在としてドロッと交わりあった一つの関係性として存在していることなんだろうな、と思った。
そしてその関係性になるには、その関係性になるにふさわしい、あるいはその関係性になれる可能性があると、その店のトップヒエラルキーである存在、往々にしてそれはその店の店主になのだが、その存在に認められなければ仲間入り出来ないのだろうと思う。そのように認められることが、「店の内」に入られることなんだろう。

では、チェーン店的なもので、今ここでいう「店の内」があるのかというと、おそらく無いと言って差支えないと思う。店において、店舗の従業員というロールの存在と、客というロールを持った存在が、サービスを提供する/されるという主従関係を成立させており、そうした主従関係があるということは一つの同じ役割としての溶け合った関係性を持つことが無いということである。
つまり、従業員と客という役割によって、お互いに不可侵な領域を線引きしており、それ以上は関わらないという決めごとをしているのである。(一蘭とかがめちゃくちゃわかりやすい。)この関係性はある意味ですごく安全である。お互いが自分というものをさらけ出す必要が無く、サービスを受け渡しするだけで済むからだ。

しかし、今日の店のような空間だと、それぞれが一人の個性のある人間としてみなされ、コミュニケーションを求められ、そして心地よい空気を共に成立させる必要が生まれる。心地よい空間を維持するという目的のために、少し矛盾するかもしれないが、多少の緊張をもってコミュニケーションに加わるのである。半ば(誰も試していないのだが)試されているような感覚にもなる。しかし、「こいつは一緒に心地よい空気を作れる人間だ」と認識してもらうことが出来れば、共に楽しい時間を過ごすことができるのである。
そして、新規客の場合は、そのように「店の内」にまずはお試しで招き入れられるか否かはその日の空気感によって異なるのだろうと思う。
上述の通り、今日はそれぞれが一人で来店し、相席をしていた。22時を回ったころに、3人くらいのグループが店の様子を往来から伺いつつ店の前まで来たのだが、店主に今日はもうすぐ閉店なんで、と言われて退散をしていた。その様子を見ながら、僕は「今この三人が来ると何となく今の空気が変わってしまいそうだから嫌だな」と思っていたので、彼らがある意味で紋残払いをされているのを見て少しホッとし、そして今自分が「店の内」にいるな、と感じたのである。

この、店の内の感覚や、客と店の線引きの無さを表す面白いエピソードを店主が話していた。
ある日、ある客ととても楽しく数時間談笑しながら飲み、その客が会計をして退店するタイミングで、「また来ます」といったらしいのだが、その「また来ます」に対して店主が「ちょっと待って、その"また来る"の"また"っていつ?ちゃんと具体的に教えてよ」と食いついたことがあるのだという。そしてそれは、その時の時間があまりにも楽しかったからこそ食いついてしまったというのだ。
僕は、この時に、「客と店の線引き」についての考えに思い当たった。
店主は、会計時までの時間や会話で、客と店を越えた一つの共同体としての時間を過ごすことができていたと感じていたにも関わらず、退店時にその客が「また来ます」という社交辞令的なことを口にしたときに、急に「客と店」の立場や役割の線引きをされたと思ったんだろうと思う。つまり、せっかく今まで一緒の立場になって楽しい体験を作れていたのに、一線を俺たちの間に引いてしまってくれるな、という悲痛な叫びが「また来るって、いつ?」という問いかけになって表れてしまったのだ。
恐らく、疎外感にも似たものを味わったのだろうと思う。

このエピソードを聞いて、「めんどくせえ」と思う人も多くいるだろうと思うし、実際めんどくさいことなんだと思う。でも、知人との関係性なんて基本的には面倒なものが多い。その面倒さを取り払って、効率的にサービスの授受を行っているのがいわゆるチェーン店的な存在だが、面倒なコミュニケーションによって成立している店があることもとても大事だと思う。
僕は今日その店を訪れて、少しだけ「店の内」に入られたように感じる。しかし、本当に「店の内」として定着することは一度訪問しただけでは叶わない。
なので、僕は明日もその店に行くことを約束し、そして実際に明日また訪れようと思う。今日はそれくらい、心地いい時間を一緒に作ることができたのだ。

少し酔った頭を水で醒ましながら、せっかく感じたことを書き留めようと思い、このように書きなぐった次第である。
では、おやすみなさい。

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