「皆全て自由の主人であり臣下ではない」-魔法使いの嫁第59話の台詞とルターの言葉

「皆全て自由の主人であり臣下ではない」。

……良い言葉だ。

魔法使いの嫁 - ヤマザキコレ / 第59話「Slow and sure.I」

魔法使いの嫁 - ヤマザキコレ 
羽鳥チセ15歳。身寄りもなく、生きる希望も術も持たぬ彼女を金で買ったのはヒト為らざる魔法使いだった……。気鋭・ヤマザキコレが描く異類婚姻幻想譚が堂々、開演!

「皆全て自由の主人であり臣下ではない」

ヤマザキコレ先生による『魔法使いの嫁』第59話。MAGCOMIにて公開されたこの話に登場した台詞に興味深いものがあり、またネット上で先行研究を見つけられなかったので、考察を行ってみました。

「皆全て自由の主人であり臣下ではない」。この台詞に、ドイツ語でルビが振ってあるのが該当の台詞です。公開期限までは、上記のリンク先から確認できます。(もちろん、購入すればそれ以降も!)

引用文らしい文語調であることや、ルビが振ってあることから恐らく何らかの元ネタ、原典があるのだろうと考えて調べてみることに。しかし日本語文だけではヒットせず、ルビはWeb公開のため画質上少し文字が潰れてしまい、判読できたルビはおおよそ「Eie jeder Mensch ist eine freier Herr alle Dinge...」という範囲でした。

それを元にいくつか検索をかけて調べてみた結果、マルティン・ルターの以下の一節に辿り着きました。

「Zum 1.: Ein Christenmensch ist ein freier Herr über alle Dinge und niemand untertan.」

ドイツ語版Wikipedia記事であり、日本語版タイトルは『キリスト者の自由』。ルターによる同名の著作に関する記事です。

キリスト者の自由 - Wikipediaja.wikipedia.org


意味は「クリスチャンはすべてのものの上に立つ自由な主人であり、誰にも従属していない」。そして、本来は「クリスチャンはすべてのものに奉仕する僕であり、だれにも従属している」と続きます。

キリスト教的な表現であれば、「キリスト者は、あらゆるもの、最も自由な主であって、何ものにも隷属していない」「キリスト者は、あらゆるもの、最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している 」となります。

ルターが『キリスト者の自由』で著したこの言葉の意味は、クリスチャン(=キリスト教徒)は、誰にも支配を受けない自由な存在であり、そしてあらゆるものへの奉仕者でもある、ということです。自由と献身。当時のキリスト教的な精神を反映した言葉だと思います。

私自身は、世界史における「宗教改革を提唱しながらも、農民の蜂起に対して手のひらを返した人」というルターへの印象があったため、この言葉を見て「やはり、ルターは敬虔な信仰者でもあったんだな」と感じました。この時代のキリスト教や信仰はいくつもの自己矛盾を孕んでいて、とても『自由』を体現しているとは言えませんでした。しかしだからこそ、ルターが願った自由への理想と信仰そのものは、彼にとって曇りなきものだったのでしょう。

そして今回、ヤマザキコレ先生は(あるいは、作中のアドルフは)ルターの言葉を引用するに当たって、クリスチャンを「皆」に変え、後半の一節は引用しませんでした。また、「自由の主人」と「自由な主人」という違いにも大きな差があります。

「皆全て自由の主人であり臣下ではない」「クリスチャンはすべてのものの上に立つ自由な主人であり、誰にも従属していない」には、いくつかの差異があります。

それには恐らく、当時のキリスト教徒=よき心を持ったすべての人々、というニュアンスがあったため、現代語に訳せば「皆」とも言えること。また、現代では信仰の内容で人を測らない時代となったため、キリスト者、クリスチャンであるかを問わない文となったこと。
そして、「アリスに自由に生きて欲しい」という願いに、理屈では理解しながらも心が囚われるミハイルへの、アドルフの「『自由』に縛られるべきではない」というメッセージが、文脈と意図に込められていると思います。

ルターの言葉では「すべてのものに縛られない自由」が謳われていて、けれど魔法使いの嫁では「『自由』に縛られないこと」へのメッセージとして、一部を変えてこの言葉は引用されています。

『自由』とは理想であり、それ故に追い求め過ぎればかえって自縄自縛に陥ることもある。

「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」という処刑前のロラン夫人の言葉もありました。フランス革命期において、『自由』を追い求めた人々が貴族に対する処刑と粛清に熱狂した時代への嘆きです。

時代の変遷を経て、信仰の在り方や意味も変わり、言葉一つを取っても響き方は変わってゆく。

けれどいつの時代も、人は『自由』を希求し続けます。それはおそらく、我々ヒトが自由意思を持つ存在であるために。己の子に、弟子に、その可能性を妨げられることなく羽ばたかせて欲しいと願うために。

それに悩み、考え、そして時に乗り越え、時に答えを出して生きてゆく人々への想いが、この言葉には籠っているのでしょう。

良い言葉です。そして、良い引用の仕方だと思います。
つまりは、良い物語でした。いつも通りに。

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