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主の昇天(A)年の説教

使徒1章1~11節
マタイ28章 16~20節

◆説教の本文

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(使徒言行録)

 弟子たちはイエスと一緒に地上で過ごした経験を持っています。21世紀の 私たちはそういう経験を持たず、最初から「イエスが目に見えない」状態なので、なぜイエスは弟子たちの目に見えなくなったのかという疑問をあまり持たない のです。しかし、弟子たちに代わって、こういう質問をすることができます。

イエス様、あなたはなぜ私たち(弟子たち)の目から見えなくなったのですか? あなたは今まで通り、地上のどこかにとどまっていてもよかったのではないですか。そして、教皇の日本訪問とか、司教の公式訪問のように、1年に1度とか、私たちを訪問してくださってもよかったのではないですか。 そして、「最近調子はどうか」「 困っていることはないかね」「 質問したいことはあるか」と親しく話しかけてくだされば、どんなに私たちは安心できたでしょう。

 親しい人の逝去という経験をもとに、この質問について考えてみましょう。私の両親はもう亡くなっていますが、死んでいる今は、両親の存在を、「ある意味で」、より充実して感じます。もちろん、生前の方が、両親の存在を直接に感じたのは確かです。この手で触れることができるような直接性を、英語では tangible と言います。

今は、tangibleとは違うが、両親の存在の充実を感じています。彼らが元気なうちは、存在をまったく意識しないで何ヶ月も暮らしていることがありました。自分が生き抜くのに懸命でした。今は起きている時間のほとんどは、両親の存在を感じています。あまり 両親とは親しまなかった息子ですが、 今は彼らが私のことを気にかけていてくれることを感じます。彼らがこの世にいた頃に感じたものとは違って、もっと静かで落ち着いた感覚です。
私と両親がこういう関係を持てるようになるには、彼らが地上を去ることが必要だったのです。先に死んだ人を誰でも、こう感じるわけではありません。父と母、そして何人かの友人です。何らかの意味で、彼らとの間に「愛」があったのでしょう。

イエス様も、私たちと落ち着いた関係になるためには、一度、決定的に私たちから離れることが必要だったのです。

「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

 マタイ福音書のこの言葉は非常に有名です。「私の好きな福音書の言葉」 でアンケートを取れば、ベスト3に入るでしょう。しかし、この言葉をただ心暖まる励ましの言葉として聞いてはなりません。イエス様が死という深い淵を乗り越えて、そして、次に昇天という出来事において、決定的に、あえて私たちから離れたられたからこそ、イエス様は「いつも私たちと共にいる」方となられたのです。

☆説教の周辺

 主の昇天の説教には二つのラインがあります。1つは、「イエスの不在」の肯定的な意義を説く説教です。もちろん、tangibleな意味での不在です。
今日の説教はこのラインを取りました 。
このラインは来週の聖霊降臨につながります。「私が去って行かなければ、 弁護者(聖霊)は あなた方のところに来ない」( ヨハネ16,7)からです。
もう一つのラインは、昇天を「イエスは私たちに先駆けて天の国に入られた」という視点で見るものです。今日の集会祈願に、「主の昇天に私たちの未来の姿が示されています」 とある通りです。
この説教は、8月6日の「主の変容」の説教に似てきます。