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年間第6主日(A)年 説教

マタイ5章17~37節

◆ 説教の本文

「言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない。」

 律法学者、ファリサイ派は、当時のユダヤの中で最も優れた人々を擁していました。本当の意味でのエリート(選良)だったのです。イエスさまは、それを越える、新しい優れたものが、あなた方の中にあるべきだと言われるのです。私たちキリスト者は、日本の文化や伝統の中にある最も優れたものを超えるものが自分たちの中にあるかをいつも問わねばなりません 。

 私たちは、自分たちが良い共同体であるという誇りを持ち満足しているときがあります。結構なことです。だが、それはもともと、日本文化の中にあったものかもしれないのです。良いものなのですから、それを捨てる必要はありません。イエス様も 「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではない」と言っておられます。しかし、もともと私たちの中にあったものだけしかないのなら、イエスが私たちの中に来られた意味は何でしょうか。

 食卓での交流を考えてみましょう。会話がはずみ、楽しい冗談が飛び交い、ためになる有益な話も聞けた。私たちは満足して、自分がこのような立派なグループの一員であることに誇りを持ちます。
  しかし、それは本当に新しいでしょうか。一人の人望と能力のある人が中心にいて、彼を中心にして話が弾んでいるのではないでしょうか。他の人は彼に質問したり、相槌を打ったり、少し補足する形で話したり、という形で話が弾んでいるのではないでしょうか。教会では神父を中心にして、そういう形の交流が多いような気がします。このような交流を持てることを私たちは喜んでもいいのです。しかし、キリスト者の交流は、それよりもさらに優れたものを目指しています。「優れた」と言うと上から目線と思われがちなので、「新しい」 「違っている」と言った方がいいでしょう。英語では オールタナティブ、alternativeと言います。
  一人だけが中心となって、後の人々はその他大勢として貢献するのではなく、他の人々も代わる代わるに話の中心となって行く。そういう集まりを何度か、経験したことがあります。その時、私は「ここに本当に新しいものがある」と感じました。いつも新しくなくてもいいのです。しかし、古き良きものだけで満足するのなら、キリスト者の共同体とは言えないと思います。

「言っておくが、あなた方の義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなた方は決して天の国に入ることができない。」

☆ 説教者の舞台裏
  これは先週のオルタナティブ・コミュニティ(alternative community),  コントラスト・コミュニティ(contrast community) に通じる話です。 私にとっては大事なテーマです 。
 来週は御受難会の準管区会議です。私もその準備をしなければならないので、今週の説教は、十分に展開することができていません。会議が終わったら、改訂版を出します。