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年間第30主日(A)年の説教[改訂版]

マタイ22章34~40節

◆説教の本文

〇 こんな話を読みました。
「あるビジネスマンが急いで仕事に出かけようとしていました。玄関まで来ると、近くで三歳の息子がブロックで遊んでいるのを見かけました。「行ってくるよ」と軽く頭を撫でて、ドアを出ましたが、しばらく行くと、 「息子を無視してしまったな」、「そう言えば、しばらく遊んでやっていないな」という後ろめたい気持ちが起こってきました。 そこで、家に引き返して、息子とブロックで遊び始めました(仕事はどうした? )  。

ここまで読むと、何でもない話です。私も「仕事はいいのか?」と思いつつも、「坊や、よかったね」 と思っていたのですが、次のセンテンスで意表をつかれました。 遊び始めてしばらくすると、息子がこう言ったというのです。「パパ、何か怒ってる?」

息子は皮肉を言ったわけではありません (まだ3歳です)。この父親の行動の背景にあるものは自分と遊びたいという純粋な(genuine)気持ちではないということに、子供は直感的に気づいたのでしょう。小さな子供だからこそ気づいた。そして、ためらいなく口に出したのです。

純粋ではないと言っても、偽善的行動というわけではないのです。しかし、後ろめたさとか、仕事に早く行かなくちゃという焦りが混じっていました。
大人なら、そこのところを理解して、黙って遊んでもらうか、「パパ、仕事に行かなくていいの?」 とか、言ったのではないでしょうか。

息子の率直な言葉のおかげで、父親は自分の中にあるものは、息子と遊びたいという純粋な気持ちだけではなかったことに気がつけたと思います。何につけても気づくことは良いことです。

「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」「 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。・・・隣人を自分のように愛しなさい。」

〇 ユダヤ教の律法は600以上あったと言われます。そのほとんどが具体的な指示です。「こういう時は、こうしなさい 」とか、「こういうことをしてはいけない」とかの具体的な内容を含んでいます。

イエスの「愛」の律法はそれらとは次元を異にしています。具体的な内容がないのです。だから、抽象的に感じるし、隣人を愛しなさいと言われても何をすればいいんだと思うのです。

しかし、「愛」は 自分の心の深くにある空間です。三位一体の神の住まわれる場所です。全ての具体的な行動は、その空間に根を下ろしてこそ、愛と呼ばれるのです。

しかし知らないうちに、具体的な行動は、その空間から切り離されてしまいます。それが習慣になると、切り離されても実行できるのです。エピソードの父親が子供とブロックで遊ぶように、実行できてしまうのです。子供が 「 パパ、怒ってる?」と尋ねたのは、自分の行動が本当に愛に根を下ろしているかを反省するチャンスになったと思います。
このビジネスマンは決して悪い父親ではありません。最近構ってやっていないなと気づいて、それを行動に移せるのは、むしろ良い父親と言ってもいいでしょう。気づかない人、気づいても行動に移せない父親も多いからです。

しかし、この父親が息子との関係をもっと深く育みたいならば、時に、この行動が自分の心の深くにある「愛の空間」から生まれているかを反省することは良いことです。

〇 私たちにも同じような経験があるのではないでしょうか。良いつもりでした自分の行動が、人には受け入れられないという経験。人と仲違いをした。
このままではいけないと思う(それはキリスト者ならでは、です)。そして、 関係を修復しようとして、その人に働きかける。

しかし、その努力が思ったような効果を発揮しないことがあります。話しかけられた人は何か浮かぬ顔をして、期待したような答え方をしない。それで、私たちは「せっかく私から歩み寄ってやったのに」と気を悪くすることになる。
気を悪くしてはいけません。相手の人は、私の努力が関係を回復したいという純粋な望みから出たものではないということに気づいたのかも知れません。何かのキリスト教的義務感、あるいは、関係が悪いままでは自分の都合が悪い、体裁が悪いという思惑から出ていると感じたのかもしれません。そして、それは多分正しいのです。

自分の心の中にある「愛」の空間を100%純粋なものに清めて、それから愛の行動に打って出よというのではありません 。私たちは、いつまでたっても100%純粋にはなれないからです。
しかし、自分の愛の空間に時々、戻ることは必要です。そして、自分の行動がどの程度その愛の空間に根差しているかを反省することは必要です。そうでないと、具体的な行動は次第に愛の空間から切り離されていきます。最後には、文字通り偽善と呼ばれるものになるかもしれないからです。

それに気づけば、自分の心の深いところにある「愛」の空間を少しずつ養っていくことができるでしょう。あるいは、愛の造り主である神に養っていただくことができるでしょう。

その意味で、この息子のように、自分が愛の発露のように思っている行動に答えてくれない人は、神様が送られた使いかもしれません。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄と切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」 (ヘブライ 4章12~13節)