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三位一体の祝日(A)年の説教

出エジプト記 34章 4b~6, 8~9節
第2コリント13章11~13節
ヨハネ3章16~18節

◆ 説教の本文

 20年ほど前に、御受難会の創立者の記念講演会が池田教会でありました。スピーカーは国井健宏神父でした。講演が終わって、質問タイムになったのですが、真面目そうな男性が立って、質問をしました 。「三位一体とはどういうことでしょうか?」

講演の内容とはまったく関係のない質問でしたが(よくあることです)、国井神父は驚いた様子も見せず、即座にこう答えました。

「三位一体とは、神様の御家の事情です。」

それに続く説明は、私にはきわめて興味深いものでしたが、彼が答え終わった後、質問者は不満そうな表情で、こう言いました。「さっぱり分かりませんね。」

 私がなぜこのシーンをよく覚えているかというと、三位一体という難問をめぐる信徒の状況を表している気がするからです。
まず、この男性は、なぜ唐突に三位一体について質問したいと思ったのでしょうか。三位一体という神秘に関心があるから? そうではなくて、 三位一体という名前が有名だからと思います。三位一体はキリスト教の教義の最奥の部分だとはよく言われていることです。
そして、「三にして一」というのはすごい深遠な真理を言っているような 気がする。何の話だかわからないが、どうも気になっていた。それで、いかにも博学そうな神父が演壇に立ったのを見て、この機会に、つい質問したくなったのでしょう。
 では、なぜ答えを聞いた後、いかにも不満そうな顔で「さっぱり分かりませんね」と、一生懸命答えてくれた人に失礼な言い方をしたのでしょう。質問して答えがよく分からないことは珍しいことではありません。でも、あの時の男性の態度には、単に分からないというのでない、フラストレーションが感じられました。 自分が何を質問して、それにどう答えてもらったか、が分からないからではないかと思います。結局、「何の問題に答えてもらったのか、分からない」というフラストレーションです。質問者自身、何の問題に答えてほしかったのか、分からないのですから。

 実は、この時の国井神父の答えは、「三位一体論とは何を問題にする議論なのか」というメタレベルの問いに対する答えだと思います。

国井神父はこう答えました。「三位一体とは、神様の御家の事情だ」。
私は「イエス・キリストの実家の事情だ」と言いたいと思います。

 私は神戸の東灘区で育ちました。今は宝塚に住んでいます。阪神地方のこの辺りの山沿いには、大きなお屋敷が点在しているます( 私の実家はごく庶民的ですが)。東京の田園調布は高級住宅だと言いますが、 私は初めて上京して田園調布を見た時、これが高級住宅街だとは思えませんでした。 ちょっと大きめの住宅に過ぎない。阪神地区のお屋敷には、周りを高い石垣で囲んで、中が容易には見えないくらい、奥深い、大きなお屋敷があるのです。そして、そういうお屋敷はだいたい誰が住んでいるか、分からない。流行に乗った会社の社長とか、有名な芸能人とかじゃないのです。国井神父の三位一体の説明は、こういうお屋敷の近くに住んだ経験があるとよく分かるでしょう。私が納得したのは、私が子どもの頃、そういう地域に暮らしていたからでしょう。

 国井神父の話はこうです(私なりの再話です)。
大きなお屋敷の近くに住んでいると、門前をよく通りかかる。ある日、門からひょっこり出てきた人に出会う。縁があるのか、何度も出会い、しだいに仲良くなる。イエスという名前らしい。お屋敷の使用人ではなく、主人らしい。とても良い人のようである。世の中のこともよく知っている。
すっかり親しくなって、喫茶店で話しこむこともある。ある日などは、誘い合わせて、地域の募金活動に参加した。

 門から他の人が出て来ることもある。「聖霊」氏と「御父」氏というらしいが、イエス氏ほど親しくなれない。だんだんにイエス氏がこの大きなお屋敷の中でどんな暮らしをしているか、知りたくなった。特に、「聖霊」氏、「御父」氏と一緒にどう暮らしているのか。

 そこで、イエスの言葉の端々から、お屋敷の中の生活を推測するようになった。また、門が開いた時に中を覗きこむ。そうして、垣間見たお屋敷の生活を、たとえ断片的にでも表現しようとするのが、三位一体論という議論である。・・・私も垣間見たと思うことがあります。いつか、それを説教で話すこともあるでしょう。

 お屋敷の中の生活を知りたいという好奇心を、今のところは持たない人もいます。確かに、お屋敷の中でどんな暮らしをしているのかが分かれば、イエスのことがもっとよく分かるようになるでしょう。しかし、慌てることはありません。とりあえずは、イエス・キリストと親しくなることで十分です。私たちはよく生きることはできます。ただ、毎年一回、この祝日にキリスト教信仰にはこういう分野があることを思い出しましょう。いつか、大きなお屋敷の中の暮らしを知りたくなるかも知れません。

☆説教の周辺

今日の説教は、ほとんど 聖書朗読と関係づけていません。祝日のほとんどは、救いの歴史の出来事を祝うものですが、三位一体の祝日は神学的祝日 (idea feast)と言って、「 歴史の出来事」ではなく、「ものの考え方 」(idea)と関連があります。 単に人間が頭の中で考えたことという意味ではないのですが。