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年間第11主日(A年)の説教

マタイ9章36節~10章 8節

◆ 説教の本文

「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」

 能勢電鉄(兵庫県)の終点に日生中央という駅があります。そこから歩いて15分ぐらいのところにある小教区に時々、ミサに行っていました。 ミサまで時間があるので、駅の構内をぶらぶらしていると、高齢男性が駅員に声を荒げて何か文句を言っていました。
掲示板について苦情を言ってるようでした。苦情の内容はよくわからないが、このお爺さんが大変しつこい。延々と怒鳴りまくって、駅員は困り切っていました。結局、お爺さんの気が済むまで、苦情は続きました。

    この光景が強く印象に残っているのは、日本の労働者の孤独、孤立ということを考えさせられたからです。理不尽な苦情を言う客がいるのは不思議はではない。しかし、誰も間に入ってくれない。反論することもできない。独りで黙って耐えているしかない。日生中央駅は終点駅なので、構内はそれなりの大きさです。そのガランとした駅で、駅員は独りで、理不尽な苦情に時間無制限で対応しなければならないのです。同僚も上司も間に入らない。そもそも駅員の数が少ないのかもしれない。

私は何とかしてあげたいと思いましたが、お爺さんの苦情がいちおう理のあるものなのか、それがわからない。どうしたらよいか、知恵が出なかった。
後から考えると、「 ちょっとすいませ~ん」と 駅員さんに問い合わせをする振りをして声をかければ、角を立てず流れを変えることができたかも知れない。

 その頃、コンビニにモンスター・クレイマーがやって来て、店長に怒鳴りまくった挙げ句に、土下座を強要したというニュースが何件か報道されました。止むを得ず、土下座すると、それを写メに撮る鬼畜なことまでしたということです。

 私がショックを受けたのは、こんな理不尽なことが行われているのに、誰も間に入ろうとしなかったということです。SNSで話題にはするのに。また、店長が土下座せざるを得なかったのは、拒絶した場合、上司は自分を守ってくれないだろうと思ったからではないでしょうか。
私が働いていた40年前なら、上司や同僚、そして、周りの人は座視してはいなかったでしょう。
現代の労働現場、特に接客現場の人はまったく孤独だと思います。
かと言って、駅員を小突きまわしていたお爺さん、モンスター・クレーマーが、へへ、虐めてやったぜ!と幸福であるわけでもない。

 やはり、日生中央駅でのことです。私は教会のミサに行く時、最寄りの駅の喫茶店で、説教の最後の仕上げをする習慣を持っています。その日、ロッテリアに入って準備をしていたら、近くの席に座っていたお爺さんが話しかけてきました。
ホームレスのようではなかった。近くの住宅地に住んでいる人でしょう。独り暮らしか、朝から家にいられない事情があるのかもしれない。私の読んでいた本を指さして、何か言っているのですが、私は説教を詰めるのに忙しくて、相手をしてあげられなかった。ここでも、飼い主のいない羊のような有り様があると感じました。

「病人を癒し、死者を生き返らせ・・ 悪霊を追い払いなさい。」

 私たちは力の無い者たちです。文字通りの意味で、こんなことができるわけではありません。駅員さんの労働環境、朝からロッテリアに来る老人の生活環境を大きく変えてあげることはできない。
しかし、通りがかりの一言が、「あなたは独りではない」と伝えることができるかもしれない。
老人に虐められて、心が落ち込んでいる駅員さんに「いろいろ大変ですねぇ」と暖かい声をかけることが、駅員さんの一日を救うことになるかもしれない。
ロッテリアのお爺さんと少し言葉を交わすことで、お爺さんの一日に小さな火が灯るかもしれない。
    町に出る時は、そういう機会があるかもしれないという気持ちでいましょう。

「ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」