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年間第3主日(A)年(神のことばの主日) 説教

マタイ4章 12~17節

◆ 説教の本文

「湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。」

 私の父の郷里は、兵庫県の西脇市という地方都市です。町の中心を加古川の支流、野原川が流れています。
福音書のこのフレーズを読むと、イエスは「 西脇の町に来て、住まれた」 ということを考えます。西脇にもカトリック教会があり、少数ながら カトリック信者がいました。西脇市はかつては繊維の町、織物の町で栄えました。九州からも労働者が移住して来て、住んだようです。その中にカトリック信者がいて、その子孫が今でもいるのでしょう。
 パウロは「コリントにある神の教会」という言い方を好みました。
「西脇にある神の教会」は、異邦人の光となったでしょうか。第1朗読のイザヤ書では、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあります。
 大した光にはなれなかったでしょう。 西脇のカトリック信者は激減しているようです。今は集会所となって、加古川教会から神父が来ています。しかしそれでも、異邦人の光となった信者が何人かいるのではないか。私は教会とコンタクトを取る機会がありませんでしたが、この町を訪れる時にいつもそう思うのです。東京や大阪に住んでいると、カトリックの施設が多いし、様々な企画が催されているため、カトリックの実勢を過大評価しがちです。
しかし、地方都市に行くと、宣教ということがリアルに感じられます。この町でカトリックとして生きるとはどういうことか。宣教するとはどういうことか。

「悔い改めよ。神の国は近づいた。」

 マルコ福音書には、もっと詳しく、「 時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 (マルコ1章14節) とあります。
これはキリスト教のメッセージの根幹を示しています。悔い改めれば、「神の国」が来るというのではないのです。神の国は近づきつつあるという大きな安心の中で、今日、悔い改めの業を行いなさいということです。

 しかし、「神の国」は近づきつつある、きっと来るという確信はどうしたら得られるでしょう。神の国の到来はカトリックの信仰箇条であり、自分はカトリック信者であるという理由だけで確信が得られるものではありません。確信は、何らかの形で自分の宗教体験の中に育たなくてはならないものです。

 私たちが「神の国」の到来の確信を得られるのは、自分がキリスト者として行動することによってです。
「神の国」はモノではありません。「神の国」は聖霊の動きです。
自分がキリスト者として小さな行動を起こすことによって、「神の国」が確かに近づきつつある動きをかすかに感じ取ることができるのです。確信を少し得ることができます。そして、確信が増すことによって、キリスト者的行動をより自由に起こすことができるようになります。
 確信の芽生え→キリスト者的行動→より大きな確信→より自由な行動
という循環を経ることによって、次第に確信は確固としたものになって行きます。
 昭和の落語名人に林家正蔵という人がいました。円生や志ん生、文楽と並ぶ存在でしたが、この三人に比べると地味で、少し格が落ちるような扱いを受けていました。飄々とした言動の人でしたが、将来への不安もあったのでしょう。彼が言っています。怖い時は動くんだ。動くと怖さが去っていくと。動くとは新しい演目に挑戦するというようなことです。

 キリスト者を増やすという意味での宣教は困難です。 西脇市のような地方の小都市ではとても困難でしょう。しかし、異邦人の光となることは可能です。自分の生き方で、半径50メートルをちょっぴり照らすことは可能です。
そして、その範囲を日々、広げていく。

☆ 典礼暦の豆知識

 A年の年間主日は、マタイ福音書の大事な箇所を順に読んで行きます。第1朗読(旧約)は、当日のマタイ福音書の朗読と何らかの関連がある箇所が選ばれています。だから選ばれる旧約聖書の文章は、今週はイザヤ、来週はゼファニヤとバラバラです。
 今日の朗読はわかりやすい例です。マタイ福音書の引用している箇所(イザヤ書)が、第1朗読になっています。
しかし、関連が分かりにくいものもあります。どうしてこの旧約朗読が選ばれているのかを解説する公式文書はないのです。それでも、関連をあえて探すようにすると聖書の読み方が深くなるでしょう。