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年間第16主日(C年) 説教

ルカ10章38~42節 マルタとマリア

◆説教本文

 マルタはイエス様に叱られたというほどでもないが、その態度に、イエス様はご満足ではないようです。いったい、何が彼女の問題なんでしょうか。彼女が「人をもてなす」ということが分かっていないところだと思います。そして、これは日本のおもてなしの弱点です。
 彼女は「立派なおもてなし」ということにとらわれてしまっています。イエス様が何を望んでおられるかということが、目に入らなくなっています。そして、その「立派なおもてなし」を実現するためにイライラして、ついにはもてなされるはずのイエス様に当たるのです。おかしなことのようですが、日本の社会ではよくあることです。

 私が長崎にいた頃には、まだ家庭集会が盛んでした。 ミサをして、食事をして、座談会をするというスケジュールです。 私としてはミサをするということが一番大事です。家庭集会の本来の趣旨から言ってもそうだと思います。ところが、ミサが始まっても、女性たちは食事の準備にかかりきりで出てこないのです。 確かに、ごちそうです。 皿うどん、刺身などがふんだんに出ます。 しかし、家庭集会は立派な食事を出すことではないはずです。 少人数の親しい人たちでミサをして、そして信仰のことを話し合う、神父に日頃聞けないことを質問する。それが家庭ミサの値打ちです。食事は、女性たちもミサに出て来られる範囲のものを作ればよいのです。

 マルタはそんなに豪勢な食事を出す必要はなかった。マルタはイエス様が豪勢な食事を望んでおられると思ったのでしょうか。そうではないと思います。 ただ、こういう場合には、「立派な食事を出さないと、人様に恥ずかしい」という思い込みにとらわれているのです。

 日本の一流旅館のおもてなしも、この傾向があると、日本の観光業に詳しいイギリス人が言っていました。客が頼んでもいないことを忖度して、それに応じるのが「 おもてなし」だと考えているようです。しかも、客というものはこういう事を喜ぶものだと、あらかじめ一般化されている。個人を見ていない。その一方、実際に客が頼んだことは何かと理由をつけて断ることが多い。  
 欧米の一流ホテルのサービスとは、客に頼まれたことにはできるだけ応じることです。コンシェルジュという職業がありますが、これは、人殺し以外はどんな依頼も引き受けると言われるぐらい、何でも引き受けてくれるらしいです。ただし、それだけのことをしてくれるホテルはとんでもなく高いそうですが。

 マリアは、深い考えがあったかどうかわかりません。しかし、イエス様がこの時、最も「してほしいこと」をしたのです。ご自分の話を聴くことです。この物語は、イエス様が十字架の立つエルサレムに向かう旅の途中におかれています。そこに注目すると、さらに「 食事をしている場合じゃない」ということになります。 イエス様が特に御受難について話されたかどうか分かりませんが、ご自分の本当に伝えたいことをじっくり聞いてくれる相手を 歓迎したことは確かです。それが「マリアは良い方を選んだ」です。

 この物語を読む人は大体マルタに同情的です。「彼女も善意でやったことなので、それをあまり責めないであげて」。 しかし、彼女の形式だけを見て、その人が実際に何を望んでるかを見ようとしないという欠点は、もっと深刻に考えるべきことだと思います。
果たして、それが善意といえるのでしょうか。公共交通機関で席を譲る時も、私たちは、「席を譲る」という規範に自分が従うことに心を奪われがちです。「必要のある人が、気持ち良くその席に座る」という実質を軽視しがちではないでしょうか。だから、譲ったら、そそくさとその場を離れる人が多いのです。少し言葉を交わせばいいのに。これは日本文化の根幹に関わることです。

☆ 説教プラン
 今週の聖書箇所の解釈には二つの道があります。一つは平常時モード、もう一つは非常時モードです。
 非常時モードは、イエスの生涯は最後の段階に入っており、イエスは十字架の立つエルサレムに向かって歩んでおられるというシチュエーションの中で、この物語を読むのです。 「時は迫っている」という切迫した雰囲気の中に置くと、マリアの態度が全く正しいことになります。イエス様はエルサレムでご自分を待ち受ける苦難について話されたであろうし、マリアはその話に深く聴きいっていた。

 平常時モードは、いつでもどこでも起こりうる家庭の物語として読みます。
非常時モードで読むのが正道なのかもしれません。私もその解釈に魅力を感じますが、私の今の力では、それを豊かに展開することができません。3分で終わってしまいます。
そこで今回は、平常時モードで話します。今年は非常時モードを頑張ってみようと思っていたのですが、あまりの暑さにバテました。