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年間第34主日(A年)の説教

A年: マタイ25章31~46節
B年: ヨハネ18章 33~37節
C年: ルカ23章35節~43節

◆説教の本文

〇 年間第34主日は典礼暦(教会暦)の最後の主日です。そして、「王であるキリスト」という名前がついています。

主日の説教は、当日の福音朗読を展開するという形で行うのが原則です。特に年間主日はそうです。この方針が、一時は原理主義的に強調されたことがあります。
しかし、名前のついた主日は、当日の福音朗読を主な参考にしつつも、それにこだわらず、その日のテーマ(つまり主日の名前)を展開するのが良いのではないかと思っています。

良い例は、三位一体の主日です。「 三位一体」という考え方は、福音書の中にははっきりとは打ち出されていないので、当日の福音朗読から三位一体を語るのは難しいのです。私のこの日の説教は全く福音朗読から離れています。

この日のテーマとは、教会の一年の終わりにあたって、「キリストは私の生活の王となっておられるか」ということではないかと思います。
A年の福音朗読は「時の終わり」( 終末論) の雰囲気が強いのですが、今現在、キリストはどの程度私の生活の王となっておられるかを顧みたらどうでしょう。そして、来週から始まる新しい教会暦の一年をどのように生きるかを考える日にしたいと思います。 A・B・C年、三つの朗読箇所も参考としつつ。

〇 A年の朗読箇所だけを展開すると、キリスト者の人生を評価する視点は1つだけ、つまり困窮する人に具体的に手を差し伸べたかどうか、だけになります。もちろん、その視点が重要であることであることは確かです。キリスト教にとっては最も重要な視点かもしれません。しかし、唯一ではないはずです。

その視点だけで、人間の人生を測るならば、夏目漱石、正岡子規 、ベートーベンなど、文化史上の人物はどうなるのでしょうか。夏目漱石が相談にやって来る人に親切であったこと(相談に乗り、お金を援助した)は書簡などから 伺えますが、人に手を差し伸べることを自分の人生の最も重要事項とした人ではありません。彼にとっては「書くこと」が最も重要だった。そして、書くことを通して日本の人々に奉仕しようとした人だと思います。

子規は生涯が短かったこともあり、貧乏でもあったので、困っている人を援助したという話は聞きません。ベートーベンになると、もちろん意地悪な人ではなかったけれども、その生涯は音楽だけと言っても過言ではありません。個人的には、むしろ傍迷惑な人であったでしょう。

彼らの人生は、キリストの前に無価値であったのでしょうか。学者や政治家についても同じようなことが言えます。食べ物を与えたり、刑務所を訪問したり、個人的な奉仕をする人だけが、キリストの前に良しとされるのでしょうか。そう言い切れる人はいないでしょう。

そもそも、キリスト者のほとんど(私自身を含めて)が、飢えた人に食べさせ、渇いた人に飲ませる個人的な奉仕を第一とする人生を送ってはいないのですから。

〇 1年の終わりに、キリストはどういう意味で、どの程度、私の人生の「王」であるかを顧みましょう。どの程度、「飢えている人に食べさせたことがあるか」「 旅人に宿を貸したことがあるか」「牢にいた人たちを訪ねたことがあるか」は、重要なチェックポイントです。

そういうことは大して、していないという人も多いでしょう(私はしていません)。では、あなたは「キリストへの愛のゆえに」、「キリストへの愛の証として」何をしたでしょうか。考えてみましょう。私も書くことを中心にしてきましたが、キリストへの愛の証としてやってきたでしょうか。
あなたがこの一年、力を入れたことがあるでしょう。しかし、あなたはそれを、「キリストへの愛の証として」行なったでしょうか。それを考えることは、キリスト者としてのあなたの、この1年の総決算となります。

来週は、待降節第一主日です。教会の新しい一年が始まります。この一年の総決算をすることは、次の一年の良い準備になるでしょう。

☆ 説教の周辺

(1) 待降節第一主日のテーマは主の再臨です。「王であるキリスト」の主日も、主の再臨(主の裁き) とされることが多いと思います。A年の福音朗読のイメージがあまりも強烈だからだと思います。しかし、蛇の頭が尻尾を噛むように、年の始まりと終わりの主日が同じテーマになるのは不自然です。この主日は一年の総決算とするのが良いのではないでしょうか。

(2) この説教は言い訳がましく聞こえるかもしれません。私自身が、漱石のように偉くはありませんが、「書くこと」を通して人に奉仕しようとしてきたからです。

聖書注解書には、「これらの小さい者の一人にしなかったのは、 私にしなかったのである」を正面から説いて、「しなかった人には裁きが下されるであろう」と断定しているものがほとんどです。しかし、注解者たちは、実生活ではどの程度、飢えた人に食べさせているのだろう。