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復活節第6主日説教

復活の主日に、 主イエスは手を広げて、「あなたがたに平和があるように」 と言われました。続いて、「 父がわたしをお遣わしになったように、 私もあなたがを遣わす」と 言われました。 第2主日にも「あなたがたに平和があるよう」にと言ってくださいます。 そして今日、 第6主日には 「私はあなたがたに平和を残し、 私の平和をあなたがたに与える」 と言われます。 福音書の時系列では、御受難の直前の言葉ですが、典礼上は 復活節に読まれます。

復活はもともと宣教の含みを豊かに持っていますが、 復活節の始めには むしろ、 自分自身が 復活の光に 全身を晒して それを十分に 受けることに主眼があります。 あまり早く、 復活の光を広げる ことに心を向けるのは、自分自身が 光を十分に受けることを妨げると思います。 少なくとも復活する第1週は 親しい人々と一緒に、 キリストの平和を 味わうことが いいでしょう。ヨハネ21章の弟子たちのように。「 弟子たちはあなたはどなたですかとは聞かなかった。それがイエスであると知っていたからである。」
しかし、 第6週ともなれば 外に本格的に向かうべき時です。 キリストは「 私の平和」と言っておられます。 それはキリストの生身の体をもって、 もたらされた 平和です。 優れた言葉は無意味だとは言いませんが、 私たちが思うほどの 現実への 影響はないものです。 体を張る事があってこそ、 現実を少しでも動かすことができるのです。 教会共同体の中に不和があるとき、 主任司祭が 平和の説教をする。 主任司祭が人望のある人であれば、 その説教は聴かれるでしょう。 しかし 、 不和の現実を 動かすことは ほとんどできない。 そんな時、 司祭は 「いい説教してるんだけどなぁ。 どうしてみんな言うこと聞いてくれないんだ」と思うものですが、 現実が 動こうとしないのは 体を 持ち込まないからです。 嫁と姑の不和を、 夫が何とかしようとする場合も、 体を持ち込まなければなりません。 体を張れば、 侮辱されたり、 傷つけられることもあります。 「そういうあなたがやっていることはどうなんだ」と 矛先が自分に向くこともあります。難しいことです。 私の司牧者としての30年で、 それができたと思うことは ニ、三度です。

しかし、 体を張る気がないのなら、 どうしようもない人々だ という不満は言うべきではないのです。 自分が生身の体を 持ち込むことを 拒否したのですから。
「 平和をもたらす人は幸いである。 その人々は 神の子と呼ばれる」。 神の子とは、 キリスト者に対する最高の賛辞です。 平和をもたらすとは、 体を持って 、ささやかでもアクションを 起こすことです 。 平和や和解について知恵ある言葉を語ることではありません。 少なくとも、 言葉がアクションによって支えられなければならない。