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四旬節第4主日(A)年 説教
本日の福音 ヨハネ9章1~41節
◆ 説教の本文
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
先週に続き、長い朗読です。そして同じように、イエスの自己開示があり、人間の側がそれが受け入れます。しかし、「サマリアの女」ほどカラフルな物語ではありません。同じような問答が続くように見えます。少しでも 興味深く読めるように、いくつかのポイントを説明しましょう。
〇イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人に、物理的な視力をもたらします。本人にとって忘れられない素晴らしい出来事のように思われますが、案外にそれだけで終わったかも知れません。いつの間にか、目が見えることが日常になってしまったかも知れない。
人間は慣れるものなのです。特に、良い状況にはすぐに慣れる。大金を紛失した人は、 届けてくれる人があれば謝礼として半額だって払ってもよいと思います。ところが、いざ届けてもらうと謝礼を払うのが惜しくなって、お車代ぐらいでいいだろうと思うものなのです。今ある状態を当然と思うからです。
幸運にも、この人にはこの出来事についてアレコレ尋ねる人が次々に現れて、説明しなければならなくなりました。説明したり、質問(尋問)に答えたりしているうちに、この出来事について深く考えざるを得なくなりました。
最後にイエス本人に出会い、救い主と認めます。
〇 深く考えざるを得なくなっただけではなく、この出来事をもたらした「イエスとはいったい何者か」について決断しなければならなくなりました(彼はどこから来たのか)。 ファリサイ派の人々が、イエスを罪人だと断定したからです。
彼の両親はファリサイ派の人々を恐れて、目が見えるようになったという事実は認めたものの、彼は何者かという問いに対しては答えませんでした。しかし、彼はこの素晴らしい業を自分の身に行ってくれた人が罪人だとはどうしても思えませんでした。
〇 見えないものが見えるようになるためには、「見ようとする意志」が必要です。私たちは明鏡止水とか言って、目が澄めば自ずと見えると考えがちです。目が澄むことは確かに必要です。濁った目を次第に澄んだ目に変えていくことは、神の業です 。
しかし最終的に、積極的に見ようとする意志が自分になければ、見ることはできないのです。彼は最後にイエスと出会った時に、「その方を信じたいのです」と言います。見ようとする意志を表明したのです。その意思表明に対してイエスは言われます。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
洗礼志願者がいる小教区では、洗礼志願者の「解放を求める祈り」が祈られます。この祈りは、洗礼志願者がいない小教区でも祈ることができます。
「あなたに選ばれた洗礼志願者が闇から光に移り、暗闇の力から解放されて、いつも光の子として歩むことができますように。」
「疑いと不審に打ち勝ち、信仰の光を受け、曇りのない目であなたを見ることができますように。」
☆ 説教者の独り言
(1) 私は説教では出来る限り、聖書本文を解説しつつ、同時にキリスト者の実生活に役立つ教訓を引き出すように努力しています。どれだけ成功しているかは分かりませんが、とにかくその方向で努力しています。
しかし、四旬節第4主日のこの朗読では、それが難しい。聖書の朗読に続いて、物語を私なりに語り直して、聖書の物語が直接、会衆に働きかけてくれることを期待しています。
(2) 聖書解説的なことは最小限にして、「見えるということはどういうことか」に関する私なりの考察を述べて、説教とすることもできます。小教区のミサなら、その方が会衆の満足度は高いでしょう。
しかし、これは「読む説教」なので、 今回のようなやり方もありかなと思います。