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年間第20主日(C)年 説教

ルカ12章 49~53節

「私が来たのは、地上に火を投じるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

◆ 説教本文

 私が大学生の頃は(1970~1975)、まだ学生たちが激しい議論をしていた時代です。大学紛争の余韻が残っていました。 私もまた喫茶店に朝から夕方までこもって、友人と議論することがありました。
 議論の中には、「 お前は逃げているんだよ」とか、「 君は徹底していないな」 などという非難も含まれていました。「 ウェーバー を読んでいないようじゃ、話にならないな」と ディスることもありました。今のネットの時代では非難や、罵詈雑言は別に驚くべきことではないと思うかもしれません。しかし、その時代には、友人同士の議論というのは、時に至近距離で対面して殴り合ってるようなものでした。遠くから鉄砲を撃ちかけるのとは違います。しかも、グループの陰に隠れることのできない、1対1の個人戦です。だから、論破されたと自分で感じた時のダメージは半端じゃない。トボトボとうち萎れて下宿に帰りました。でも、数日経ったら復活して、今度は言い負かしてやると思っていました。

 そのような光景があった時代を懐かしく思い出します。そういう雰囲気が社会から次第に消えていることは知っていましたが、三十二歳で神学校に入った時、改めて知ったことは神学生たちも全く議論をしないことです。ここには議論があるだろうと思っていたのです。物足りなく思っていたら、ある同級生が言いました。神学生が皆、カウンセリング・マインド`を持ってしまったからだと。なるほど、相手の話を傾聴しようとしていたら、議論にはならないでしょう。

「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。」

 若い時の議論なるものは、今にして思えば若気の至りでした。互いに見栄を張って、知らないことをよく知っているふりをして、読んだことない古今の名著を読んだふりをして、話をしていました。愚かな若者であったと思います。その時代をなぜ懐かしく思い出すのでしょうか。
情熱的に生きることへの憧れです。私は情熱に生きることに憧れていて、今もその憧れはあります。
 そして、激しい議論のない今の教会の姿が正しいとも思えないのです。自分の考えを話すだけで、違う考えがあることを知っていても、それには触れようとしません。言い争うことは野暮であると思われています。

「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」

 イエス様はわざわざ分裂を引き起こしたいわけではない。しかし、イエス様が本当に入ってこられたところでは分裂が起こることがある。価値観の違いが鮮明になるからです。
分裂、激しい議論のないところには、イエス様が本当に入って来ていないのかもしれないのです。

 若い時代のような、愚かで激しい議論はもうできません。時代の雰囲気がそれを許さないとも言えますが、年を取ると、言い争うことのコストを考えてしまうのです。陰口を叩くことにはエネルギーはいらないが、言い争うことにはエネルギーが必要です。また、言い争うとダメージを受けるので、そのダメージから回復するためにまたエネルギーが必要です。若い頃は復元力(resilience)があったからそれができたけれども、今はもうできません。

 しかし、 若い時のような愚かで激しい議論はもうできないけれども、別の仕方で本気の議論ができるようになったとも思います。時に言い争いになるような、本気の議論をするためには、人間への信頼が必要です。言い争ったとしても、ぎこちないものは残るとしても、関係はまた回復できるという信頼です。その人間への信頼を与えてくださるのはイエス様です。死を乗り越えて復活されたイエス様です 。

「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」

☆ 説教プラン
 今週の 『聖書と典礼』には こう書いてあります。
「イエスのメッセージは人々に神の国を受けるか否かの決断を迫るので、必然的に分裂が起こる。」
これは定番の解説ですが、私たちの生の経験には少し遠いのではないでしょうか。人間がそういう根本的な決断を迫られているということは間違いではないでしょうし、キリスト教が迫害されている地域では実際にそのために分裂が起こるでしょう。しかし、今の日本の私たちが経験している分裂は、それほど根源的なものではない。
 私は聖書を平凡な人間の普通の経験に近いところで解釈したいと思っています。それで、「 激しい議論をする」ということを中心に説教を組み立てたのです。
  もちろん、『聖書と典礼』にある根本的な決断を論じていて、かつ現代日本の私たちに触れる説教があれば 聞きたいと思います。