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枝の主日(A年) 説教

マタイ21章1~11節 (枝の主日)
マタイ27章 11~54節( 受難の主日)

◆ 説教の本文

「大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして 群衆は・・叫んだ。」

 この主日は「枝の主日」とも呼ばれ、また「受難の主日」とも呼ばれます。 聖金曜日(主の受難)にはヨハネ福音書の長大な受難物語が読まれますが、それに先立って、この日には共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)の受難の記事が読まれます。聖週間全体を、受難の出来事を背景にして過ごすことが望まれているのだと思います。それで、「受難の主日」というのです。

 この説教では、枝の主日の意義を考えます。すなわち、イエスのエルサレム入城と、それを迎える民衆について考えます。
 エルサレムで歓呼してイエスを迎える群衆には、悲観的な暗いイメージが付きまといます。いま歓呼しているこの連中が、数日後には荒々しく、イエスを「十字架につけろ」と叫び立てるのです。人間という存在の軽薄さ、当てにならなさに焦点が当てられがちです。

 しかし、この群衆はもっとポジティブな光が当てられるべきではないでしょうか。エルサレムの住民が皆、街頭に出てイエスを歓迎したわけではないでしょう。冷めていた人もいたはずです。
群衆とは、多くの人々という意味であって、「みんな」とか「大部分」という意味ではないと思います。有名な祭りが開かれる町を実際に訪れると思うことですが、その町のみんなが祭りに熱狂してるわけではないのです。祭りには関心が薄く、普通の生活を営んでいる人々も結構います。
 エルサレムの町の人々は、イエス以前にも救い主、解放者の噂は何度も聞いたことがあったでしょう。そして、結局は失望させられた 。「今度のやつもどうせ 偽物だ」と高をくくって、家にこもっていた人もいたでしょう。

 それでも、もう一度希望を持てる人々は褒めるべきではないでしょうか。
2010年の「アラブの春」で自由の夢を見た人々は、その直後の幻滅からまだ立ち直っていません。エルサレムの人々もまた何度も失望させられたことが あったと思います。しかし、失望に懲りずに、新たに希望を表明することができるというのは大したことです。
 キリスト者の特徴の一つは「懲りない」ことです。

「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。 いと高きところにホサナ。」

 キリスト者の一年で最も大事なとき、聖週間、そして、「聖なる過越の三日間」が来ました。私たちも自分に失望し、幻滅したことがあるでしょう。しかし、この聖週間に、自分に「何か」something が起こることを、懲りずに期待しましょう。そして、私を通して、私の家族の歩みに、共同体の旅路に。

 緑のシュロの枝を振って、主であるイエスを迎えましょう。

「シオンの娘に告げよ。見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ロバに乗り、荷を負うロバの子、子ロバに乗って。」

☆説教の周辺

 聖金曜日は世間では平日です。主の受難の典礼が伝統に従って午後3時に行われた場合、昼間の仕事を持っている人々はそれに参加することが難しいでしょう。典礼を晩に行っても、平日に典礼に参加することが容易でない多くの人々もいます。彼らも、受難の朗読(大事です!)を聴くことができる。受難の主日には、そういう役割もあると思います。この日を逃せば、一年間、主の受難の福音を聴く機会はないのです。