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年間第21主日(A)年の説教

マタイ16章13~20節

◆ 説教の本文

シモン・ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です。」

〇 ペトロの信仰告白が、イエス様にたいへん褒められていますが、その理由は何でしょうか。理由の一つは、ペトロがイエス様から投げかけられた質問に、その時の自分の全力をあげて答えたからだと思います。

〇 私は求道者時代に、国井健宏神父の指導した「十字路」という集まりに出席していました。神学生になってからも、アシスタントとして、長く出席しました。国井神父は講話も魅力がありましたが、「十字路」という集まりを、自分はどういう方針で運営しているかを、折に触れて話してくれました。
カトリック入門講座はだいたい、どこでもそういう形をとると思いますが、 前半は国井神父がじっくりと話します。後半は輪になって、お茶菓子を出して、司会を立てて、参加者が自由に話し合いをします。
国井神父は、後半の話し合いを非常に重視していました。ある意味では、参加者をキリスト教信仰に招く上で、自分の講話よりも重視していました。

彼はこう言っていました。
「 人間は人から聞いたことはすぐに忘れる。しかし、自分が話したことは忘れない」。確かにそうで、私はこの集まりに10年以上出席していましたが、自分が話したことは忘れない。 集まりから帰る電車の中で、「どう言えばよかったろう」、「どう表現すれば、自分の言いたいことが、もっとよく伝わっただろうか」と考えました。
また、これが大事ですが、「自分があの時、本当に言いたかったことは何だろう」と考えます。帰りの電車の中だけではなく、折に触れて、繰り返し考えることもありました。それが、私の信仰の進歩を助けたと思います。

〇 ペドロは衝動で、あるいはその場の勢いでものを言う男です。それは、先週の福音の中にある「水の上を歩いて、そちらに行かせてください」という願いでもわかります。
しかし、この場合は、よく考えて発言したと思います。その場で初めて考えたというのではなく、イエス様と長い間一緒に暮らしてきたその日々の中で、「いったい、この方はどなただろう」、「 私にとって、どういう方だろう」と考えてきた、その実りを、この時、「あなたはメシア、生ける 神の子です」という言葉で表現したのです。

〇 キリスト教は、神が人間の質問に答える宗教であるよりも、神の質問に、人間が答える宗教であると言われます。
神が人間の質問に答えるというのは、実際には、主に神父が質問に答えるのです。「キリスト教はこんなことを言っているようですが、こんなのはおかしいじゃないですか」とか、「これはどう考えればいいのですか」という質問に神父は親切に答えようとしています。

質問に丁寧に親切に答えるのは良いことですが、質問して答えてもらうだけでは、人間の深い変貌はありません。
人間が神の質問に、自分の全経験と知性をもって答えようとする時に、壁を突破するような進歩があるのです。
その時にした答えは間違っていることもあります。少なくとも、不十分なことが多いです。回答は、常にリビジョン(revision)されていきます。それでもよいのです。その時の自分の知性と、それまでの自分の経験を全てかけて、 自分の言葉で答えようとする時、神に大きく近づくのです。
ペトロは、まさにこの時、神の質問に全力をかけて答えたのです。

「あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を立てる。」

〇 この聖句は、ローマ教皇の権威を裏付けるものとして考えられたこともありますが、今はカトリック教会でもそうは考えていません。イエス・キリストの教会は、信じる者たちの信仰の上に立つのです。ペトロは信じる者たちの代表です。そして、その信仰は「理解を求める信仰」です。闇雲にとにかく信じる信仰ではなく、自分の生き方の中に、次第に統合されていくことを求めることを求める信仰です。
また、信仰とは、単なる内心の確信ではありません。表現し、その表現を分かち合う信仰です。