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御聖体の祭日の説教 会いに行ける神様

☆説教プラン
 カトリックになって40年ですが、私には、この日の趣旨について、今ひとつ分からないことがあります。 この日に祝うのは、「御聖体」でしょうか。 それとも、「ごミサ」でしょうか。

 公会議前には、日曜日の午後に、毎週、(私は見たことがないのですが)、聖体降福式という儀式が盛大にとり行われました。聖体行列といって、御聖体を御輿に乗せて、町を練り歩く行事も盛んに行われていました( 日本でも 何度か見たことがあります)。共同体の行為としてのミサよりも、目に見えるモノである聖体を重視する 傾向さえあったそうです。
その反動で、公会議後、教会生活における御聖体の占める場所は小さくなりました。しかし、その後、もちろんミサから切り離してはならないが、再び、信仰生活における御聖体の意義は注目されていると言ってもいいでしょう。

この日の説教では、共同体の行為としての「ごミサ」を取り上げるべきでしょうか。目に見えるモノとしての「御聖体」の有り難さを説くべきでしょうか。「 御聖体の祭日」 というのですから 、祝うのは御聖体でいいような気もします。 しかし 、 気がついている人もいるでしょうが、典礼の本をいろいろ 読んでいると、「御聖体の秘跡」というのは、ミサを指していることもあるのです。ミサ=聖体であった時代の名残でしょうか。

 私は、年ごとに重点を変えてもいます。今年はミサについて話します。
日本では、御聖体について話すのは 次第に難しくなりつつあります。病人の聖体拝領など、 現実の生活の中では 影が薄くなっているからです。実現しそうにない、頭の中だけにある、理想の信者生活( カトリック・ワールド)を語るのは、説教者の自己満足です。

◆説教本文
創世記14章18~20節
一コリント11章23~26節
ルカ9章11b~17節

   会いに行ける神様 

AKB48というアイドルグループの最初の頃がキャッチフレーズは、「会いに行けるアイドル」というのでした。よくできていると思います。こちらから会いに行ける、という意味です。
秋葉原に専用劇場をかまえていて、毎週の公演日に、そこに出向くと、いつでも、憧れのアイドルに会えるのです。この有り難さは、地方都市に住むと分かります。地方都市は意外に、歌謡曲でもクラシックでも、生の音楽を聴く機会があります。市民ホールにいろんなアーティストが回ってくるのです。ただ、自分が大好きなアーティストがあっても、いつ回ってくるか、わかりません。来てくれるまで待たなくてはならないのです。

何が言いたいかというと、イエス・キリストは「会いに行ける神様」だということなのです。会いたいときに、会いに行ける神様なのです。ミサと御聖体を、イエス・キリストが 教会を通して定めてくださったからです。
 私たちカトリック信者は、日曜日に教会に行きさえすれば、ミサにあずかることができます。 つまり、イエスにお会いすることができるのです。 「ミサに来さえすれば、 私に会うことができるのだ」 という「キリストの約束」と、そ の約束に対する「私たちの信頼」が 出会うところです。
神様はどこにでもいらっしゃるから、私たちはどこかに出かけて行く必要はないのだと言う人もいます。確かに、キリスト教の神様は、ミサでなければいらっしゃらないわけではありません。でも、私たちカトリック信者は、イエス様と出会うためにわざわざ出かけて行くのです。
 私は洗礼を受けたばかりの頃 、毎週、日曜日になると、ミサに出かけていくのが嬉しかったのです。 私は友だちが少ない人間だったけれども、日曜日に一緒に遊んでるくれる友だちがいないわけではなかった。 また 、食事をしたり 、映画に観たり、することがないわけではなかった。でも、私を待っていてくれる人はいなかったのです。友だちは、私に好意を持っていたかもしれないが、私でなければならないわけではなかった。
 日曜日、私を待ってくれている方に会いに出かけるのは 嬉しい気持ちでした。 フィリピンの貧しい地域によく出かける人が言っていました。この人たちは、「居場所がない」のではない。「出かけて行くところ」がないのだ、と。

教会までの道筋で、遊びに出かける人たち、 仕事に出かける人たちとすれ違いました 。 日本の社会で 生きる 人たちのことを考えさせられました 。
カトリック信者は 神聖なるものに包まれて、落ち着いて暮らすだけのものではないのです。 外に出かけて行って、 神様、人となられた神 、イエス・キリストに出会い、 自分の生き方と 社会に生きる人々 について 語り合うはずのものです。



☆補足ー 重い病気になると、イエス様が 向こうから来てくださるわけです。 それについて語りたいけれど、病人の聖体拝領の習慣は衰えつつあります。長崎では司祭の大事な仕事でしたが、やはり縮小しているようです。 衰えつつ あるものについて、どうすれば 意味のある話ができるでしょうか。