見出し画像

年間第28主日(C)年 説教

ルカ17章11~19節

◆ 説教の本文

   タイトル:『事前の祈り、事後の祈り』

「その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻ってきた。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」

 重い皮膚病より軽い例で考えてみます。
小教区で野外イベント、例えばバザーがあるとします。私たちは当日が晴れになるように祈るでしょう。運営の中心メンバーなら非常に熱心に祈るかもしれません。そして、前の晩は雨がザーザー降っていたが、朝になって日が射し始め、バザーが始まる頃には完全に晴れ上がったとします 。
そんな場合、私たちは祈りが聞き入れられたと考えるでしょう。仲間と手を取り合って、神様のおかげだと喜び合うでしょう。しかし、神様に感謝しているでしょうか。
 ここが問題です 。
 人間同士で 「神様のおかげだね」と喜び合うことと、神ご自身に向かって感謝と賛美を捧げることとは全く違うのです。私たちは事の始まるには、祈ります。しかし、事が終わった後は祈らないのではないでしょうか。それには理由があって、物事が始まる前にはいろんなことが起こり得ると思っています。その中には、もし起こったら大変困るということもあります。だから、 結構熱心に祈ります。しかし、物事が終わってしまうと、それは自然の成り行きだと思いがちなものなのです。バザーが始まる前は、当日の天気についていろんな可能性を考えて、あれこれ心配します。そして熱心に祈る人もあります。しかし、バザーが終わった後になると、次第に、その日が晴れになったのは特別のことではない、自然の成り行きだと感じられるものです。その日が大雨になるなどということはありえなかったような気がするのです。
 事後の祈りをしないことで、私たちは神との親しい交わりを深めるチャンスを失っているのです。神のいつくしみ深い働きをしみじみと味わうチャンスを失っているのです。バザーや夏の教会キャンプが終わった後、中心メンバーだけが集まって、感謝の祈りを捧げることを勧めます。教会キャンプなどは命の危険があるものですから、無事に終わったことだけでも大したことなのです。事故の危険を真剣に考えている人なら、大いに感謝して良いことのはずです。
 ある宣教師が言っていました。「なぜ日本人はキャンプが無事に終わった後、まず反省会をするのでしょう。なぜ喜び合わないのでしょう」。これは思い当たる人は多いと思います。私たちはこういう場合、まず反省会という名のダメ出しをするのです。「あそこはこうすればよかった」、「 こういうことをすると危険だ」という 項目を出し合います。1年に1度の行事なら、来年になると忘れてしまいますから、特に安全に関することは早いうちにダメ出しをするのは良いことです。日本人の真面目さの表れでしょう。
 しかしそれでも、神への感謝をもっと大事にしなければなりません。
具体的な事柄について具体的に感謝することで、神との親しみも具体的に深まっていくのです。「生かされている」ことについて感謝することも悪いことではありませんが、そればかりだと感謝がただ漠然としたものになってしまいます。

 危うい命を神様が作ってくださったと感じる体験がありますか。
神様(イエス様)に向かって感謝しましたか。感謝しなければならないのは、礼儀の問題だからではありません。
 神様にじっくりと感謝しなければ 、せっかく命が助かっても、前と同じ生活に戻って行くだけだからです。イエス様が「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われたのは、律法に定められていることです。この手続きを経て、隔離されていた人が共同体に戻ることを許されるのです。しかし、共同体に戻っただけでは、以前のような普通の生活ができるようになったというだけのことです。 9人はそれだけで十分なので、どんどん先に進んで、祭司のところに行ってしまったのです。
しかし、立ち戻ってしっかり 感謝をすれば、自分の命の深さをもっと感じる機会になるでしょう。生き方が少し変わります。


☆ 説教者の舞台裏

(1) コロナ禍で教会のイベントがやりにくくなりました。もう2年になります。この説教で、バザーや教会キャンプを例に出すのはビビッドではないのかもしれません。そもそも、コロナ禍以前からバザーや教会キャンプは衰えています 。
  しかし、できるだけカトリック信者の共通体験を話したいと思いました。会衆の多くが教会の共通体験として持っていることを例にとれば、説教は教会的なものになります。個人の体験でも、多くの人が同じような体験をしているということはあるものですが、教会の共通体験とはやはり違います。

(2) 戻ってきて感謝した人が サマリヤ人であったということは、聖書の中では意味深いこととして書かれています。しかし、この説教では扱いませんでした。日本にも 当然 、民族差別はありますが、宗教とは結びついていないので、日本の現実と結びついた話ができないのです。

(3) 最後の部分は息切れして、十分に展開することができませんでした。説教には期限があります。準備する時間には制限があるものなのです。 次の機会を待ちたいと思います。