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年間第32主日(C)年 説教

ルカ20章 27~38節

◆ 説教の本文

「次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、娶ることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しいものであり、復活にあずかる者として、神の子だからである。」

    今日の聖書箇所を理解するためには、ここに書かれている結婚に関する制度について知っておいた方がいいでしょう。
この制度は申命記に実際に書かれていることで、レビラト婚と呼ばれます。 目的は、財産を一族の中から流出させず、とどめておくことです。 男女間の愛情とは関係がありません 。ユダヤ人にとっては、財産的な一族の結束は大事なことなのです 。 

 七人の男性とレビラト婚姻をしたという仮想のケースを取り上げて質問するのは、男女の結び付きとしての結婚の本質に関心があるからではありません。
復活を信じる人(イエス様はその一人です) に、「 復活があるとすると、こういう馬鹿げたことが起こりますよ。どうなんですか」と矛盾を突きつけて、困らせるためでした。その前提は、復活したものの世界は、今の世界の延長にすぎないということです。
それに対して、イエス様は復活した者たちの結ぶ関係は、全く新しいものだ と教えられました。その新しさを、今は想像することが できない。
 想像することもできない世界に憧れ、そこに入ることを望むことができるものでしょうか。
私は以前は、そんなことはできないと思っていました。そんな憧れは空疎であると思っていました。
しかし、今はそのまだ見ぬ世界をこの目で見たいと心から望んでいます。イエスを信頼しているからです。イエスが私のために用意してくださっている世界は、良いものに違いないのです。

 「カトリック生活」誌にこういうことを書いたことがあります。
私は辞世の句を詠みたいのですが、俳句を自分では作れない。そこで、有名俳人の句を借りて、この世を辞する自分の思いを代弁してもらうことにしました。実際にこの世を辞するのはかなり先のことになりそうですが、今のところ、与謝蕪村の辞世が第一候補です。

白梅に明くる夜ばかりとなりにけり

かなり苦しい思いをして、死の渕を越えた。目を覚ましたら、清浄な日本座敷(これは大事)に寝ている。障子越しに明るい春の日差しが感じられる。起き上がって、障子を開けると、庭には数本の白梅が咲いている。
「ああ、やっと越えたんだ」とぼんやりしていると、庭の向こうから数人の人声が聞こえてくる。その中の一人は確かにイエス様だ。会ったことはないけれど、私には分かる。何人か、懐かしい声も聞こえる。あの人の声も聞こえる。
 この新しい土地で、私はイエスと、あの懐かしい人々とどのような関係を結んで行くのだろうか。まだ会ったことのない人々と共に、どんな世界を形づくって行くことになるのだろうか。楽しみだ。そのときが待ち望まれる。

☆ 説教者の舞台裏
(1) この福音箇所の後半はロジックがスッと頭に入って来ない。そう感じる人は多いのではないかと思います。ポイントは、神が「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」といった、その言葉が文法上、「現在形」であるというところにあります。
 神様がモーセにこの言葉を語ったときより、500年前にアブラハムは人の目には死んでいます。そのアブラハムの神であると現在形で断言された。また、神は生きている者の神である。ゆえに、モーセの時代にアブラハムは生きている。今も生きているであろう。いや、神が生きている限り(つまり永遠に)、アブラハムは生きている。
 というロジックは時間をかければ分からないわけではないが、なんだか、日本人には捻ったロジックと思われます。ロジックそのものを理解するのに時間がかかる箇所は説教に向かない。
 というわけで、「生きている者の神である」にも魅力的なポイントがあるのですが、今日の説教では取り上げるのは諦めました。

(2) この説教をライブでするのは難しそうです。私は説教壇では照れない男ですが、これはさすがに自分で照れ臭くなってしまいそうです。この説教を語り終わったあと、会衆はどう反応していいのか、戸惑いそうです。書いて読む説教でなければできないでしょう。

(3) イエス様に 難しい質問を投げかける人たちは、 イエス様を 引っ掛けたり、 困らせようとしています。 説教者も若いうちは、イエス様が 鋭い機知で意地悪な質問者を やり込めたことを強調したがるものです。 しかし、質問者の意図は意地悪でも、 質問そのものは答える意味があることが多いのです。 だからこそ、福音書に書かれているのです。
 イエス様は質問者をやりこめるためではなく、真面目に質問に答えられました。私は質問に大真面目に答えるイエス様が好きで、見習いたいと思っています。