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復活節第4主日(A)年の説教【改訂版】

本日の福音:ヨハネ 10章1~10節

◆ 説教の本文

「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」 

 神父として長い間、交際していた信者さんが、突然、「自分はキリスト教に納得していない。仏教の方が納得できる気がする」と言い出すのを聞いて、驚かされたことが何度かありました。「黙想の家」で長く、職員として献身的に働いている人にもいました。そういう迷いを胸に蓄えていた理由の一つは、教理に納得できないものが多いということです。もう1つは、教会や修道会のあり方に対する疑問です。あるいは 司祭や修道者の生き方です。

 そういう不満や疑問を持ちながら、ミサに与り続け、キリスト教施設で献身的に働きさえしているのです。なぜでしょうか。
イエス・キリスト その方の、自分を気遣う声を聞いていたからではないでしょうか。
教理の納得は無視して良いことではありません。信仰を長く保ち、成長させていくには、教理の納得、一貫性を求めることは必要です。しかし、一貫した納得できる教理が、私たちを救ってくれるのではありません。
教会も信仰の伝え手、守り手として大事です。
しかし、教会は救いの創始者ではありません。私を救ってくださるのは、復活されたイエス・キリストその方(the Person)です。私たちは、どこかで「善き羊飼い」、イエス・キリストの声を聞いてきたのではないでしょうか。

 私はある神父の公教要理を聴いて、洗礼を受けました。彼は魅力的な人柄で、知的で面白く分かりやすい話ができる人でした。私は理屈のある話が好きなので、その神父に惹き付けられました。また、そのクラスに集まっていた人も理屈のある話が好きな人が多かった。だから、私もその中に積極的に交わり、かなり歓迎されました。私は人気者だったことがないのですが、人生で初めてモテ期を経験しました。

「いやあ、良い場所に来たなあ」とホクホクしていました。
ですが、後になって思うことですが、このクラスに出逢えたのは、私を気遣ってくださる善き羊飼い、イエス・キリストの声(配慮)に導かれたからではなかったでしょうか。
そういうことが何度かあって、私は今、何とかキリスト者として立ち続けているような気がします。 皆さんにも思い当たることがないでしょうか。

「わたしの羊は わたしの 声を聞き分ける。わたしは 彼らを知っており、彼らは私に従う。」 (10章27節)

 ここに述べたことは、少し整理されすぎている気もします。私がどこで羊飼いの声を聞いたかは、はっきり特定することはできない気もします。
パレスチナの羊飼いは、彼の羊だけにわかる独特の声を出すと言います。声というより、音ですね。私は、教会の私に対する働きかけ全体のうちに、私を気遣ってくださる善き羊飼いの声を聞いたのでしょう。

「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」

 そうであれば、私たちは羊飼いの助手なので、縁あって出会う人たちのケアをしなければなりません。ケアとは、その人の本当の成長に手を貸すことです。本当の成長に手を貸すには、彼の「名」を呼ばなければなりません 。 自分が思う成長を押し付けるのではなく、「今」、「その人」に必要なことを知って(知ろうとして)、その方向に進歩できるように、少しでも手を貸すことです。
私は社交的な人間ではありません。しかし、私という人間を見て、私に必要なことを 知ろうとして、助けてくれた人もいました。人生の旅路でそういう援助者に出会えた人は、善き羊飼いの声をかすかに聞くでしょう。

「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」

☆説教の周辺

(1) ヨハネ福音書の10章1節から30節までが、羊飼いの喩えが中心です。ここは大事なので、A 年(1~10)、B 年(11~18) 、C 年(27~30) の3回に分けて読まれることになっています。

(2) 「イエスは善き羊飼いである」という喩えと「イエスは羊の門である」という喩えが語られています。この二つの喩えは容易に調和しないので、一つの説教で二つの喩えを取り扱おうとすると混乱します。

(3) 門の喩えは、ひょっとしたら教義の正当性のことを言ってるのかもしれませんが、よく分かりません。納得できる解説を読んだことがありません。 ほとんどの説教者は、「イエスは善き羊飼い である 」だけで説教するでしょう。