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待降節第1主日(A)年 説教

マタイ24章 37~44節

◆ 説教の本文

「国々の争いを裁き、 多くの民を戒められる。 彼らは剣を打ち直して鋤とし、 槍を打ち直して鎌とする。」( 第一朗読) 

 教会の一年(教会暦年)は今日、つまり待降節第一主日から始まります。
そして、待降節第一主日の典礼のテーマはいつも「 主キリストの再臨」です。 これはしっかり押さえなければなりません。ミサにぼんやり与っていると、待降節とは、最初からクリスマスの準備をする期間だと思ってしまいます。それも間違いではありませんが、第一主日はそうではありません。
 主の再臨とは何か。再臨、第二の到来=SECOND COMINGとは、第一の到来に対して言われる言葉です。
第一の到来とは、2000年前のベツレヘムの夜に、イエス・キリストが私たち人間のただ中に生まれて下さったという出来事のことです。クリスマス=降誕祭には、この出来事を祝います。
今日の叙唱にはこう書かれています。

「キリストは、人間のみじめさを帯びてこの世に来られたとき、父の定められた愛の計画を実現し、私たちに永遠の救いの道をお開きになりました。」

 一方、再臨=第二の到来とは、歴史の終わりに、イエス・キリストがもう一度、来られることです。
すでに第一の到来で、イエス・キリストは私たちの中に来ておられるのですが、その同じイエスキリストが十全な姿で、私たちのただ中に現れて、そして、私たちと一緒に生きて下さる。それが主キリストの再臨です。
今日の叙唱にはこう書かれています。

「栄光を帯びて再び来られるとき、いま私たちが信頼してひたすら待ち望んでいることは、全て叶えられます。」

 つまり、ドリーム・カム・トゥルー(dream come true)です。キリストの再臨と共に、私たちの心の深くにある願いは全て叶えられるのです。私たちは自分の心が何を願っているのか、今はまだ、全て分かっていません。IT長者になって宇宙ロケットに乗る、セレブになって皆さんにチヤホヤされるのも悪くはありませんが、それが自分の心の本当の願いでないことは容易に分かります。イエスキリストと共に生きることは、自分の心の本当の願いを見つけていくことでもあるのです。

 典礼暦はだいたい、イエスの生涯の出来事を、降誕から順に追っていくものです。しかし、その始めの日は歴史の終わりを扱います。私たちが待ち望んでいることは全て実現する。その日はきっと来る。この展望のもとに日々を生きるためです。

 というわけで、やっと本日の福音朗読です。主の再臨の日が来るという展望のもとに、今日を着実に生きることについて教えています。
「目を覚ましていなさい」とは、 ピリピリ して毎日を過ごすということではありません。私たちの心の願いが実現する日がきっと来る。その安心を心に秘めて、毎日を精一杯に過ごそうという薦めです。第二朗読のローマ書簡にはこう書かれています。

「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。」

☆ 説教者の舞台裏

 年間の説教は、当日の福音朗読に基づいて行うのが王道です。 しかし、 季節の主日にはその日その日のテーマがあります。 待降節第一主日のテーマが、「主キリストの再臨」であるように。
  それは当日の福音朗読にむしろ優先します。もちろん、その日のテーマにふさわしい箇所が選ばれているはずですが、語句にこだわり過ぎると、テーマを十分に展開できません 。 私はテーマを全力で展開していって、適切な 言葉が福音の中にあれば、それを使うようにしています。
 今日の福音は 「主キリストの再臨」を意識した生き方を薦めていますが、 多くの信者は主の再臨についてよく理解していません。よく理解していなければ、主の再臨を迎えるにふさわしい生き方を説いても、焦点がぼんやりします。 ですから、この説教では 「主キリストの再臨」そのものを説明することを主体にしたのです( 了)