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復活節第3主日(A)の説教【改訂版】

本日の福音:ルカ24章 13~35節

◆説教の本文

 「足跡」というタイトルがつけられた喩え話があります。
ある人がイエス様に苦情を言っている。「私が最も 辛い時、孤独な時に、あなたはそばにいてくれなかった。私は一人ぼっちだった。」
そして、自分の歩いてきた道を指さすと、そこには1人だけの足跡が続いている。
 しかし、イエス様は 「何を言っとるんだ!」 とは言わないで、親切にこう教えてくださる。
「 私はいつも、あなたと一緒にいた。 辛い時、孤独な時にこそ、あなたと一緒にいた。ごらんなさい、そこに続いている足跡を。その足跡は、あなたのではなく、あなたを背負って歩いた私の足跡なのだ。」

 私はこの喩え話を何度も読んだことがあって、言いたいことはわかるんだけれども、いま一つ迫ってくるものがないなあと思っていました。しかし今年、エマオに向かって歩く旅人の物語と合わせて、あらためて、この喩え話を読むと、たいへん実感があると思いました。

 「話し合い論じ合っていると、イエス ご自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」

 二人の弟子は、自分たちの落胆、失望について話し合っていました。
 ヘンリー・ナウエンは、彼らの話し合っていた様子をこのように表現しています。

 「二人の人が共に歩いている。その歩き方から彼らの消沈した様子がわかる。体は前かがみになり、顔はうつむき、その動作は実にゆっくり、お互いに顔を見合わせることもない。・・・発せられた言葉は役に立たない音のように空中に消えていく。道に沿って歩いているが、どこを目指して歩いているのかもわからないように見える。彼らは家に帰るところなのだが、そこはもはや自分たちの家とは言えない。ただ単に他に行く場所がないというだけのなのだ。」

 「忘れよう、もう終わったのだから。確かにより良い世界を考え、愛の共同体、愛のコミュニティを頭に描き、全ての人が平和に共に暮らす世界を考えた。しかし、現実に気がついた。・・・変えることのできない性格、いつまでも続く悪い習慣、妬み、拒絶、怒りと復讐の時・・・ これらの苦い現実が私たちの目を覚ましてくれた。私たちの若さに満ちた希望は、十字架につけられてしまったのだ。」( 燃える心で)

 私たちも確かにこのような失望に囚われて、落胆することがあります。失望や落胆は、希望に裏切られたという怒りに変わっていくこともあります。 ウクライナの戦争で、人間の人間に対する暴力の残酷さを改めて思い知らされて、「人間は何も進歩していない 」と失望します。
家庭や職場のトラブル続きに落胆することもあるでしょう。 一つのトラブルが終わったと思ったら、すぐに次のトラブルが爆発する。私のような 修道者や 司祭は、教会や修道会の弱点が、世間と何ら変わりがないことに失望して(時にもっと悪質)、「こんなことで神の国が来るはずはない!」と憤ることもあります。
 しかし、その落胆して、失望や怒りを胸の中で呟いて時も、知り合いにぶちまけている時も、それを耳を傾けて聴いていてくださる方がある。
私が閉じられた空間で愚痴をこぼしていると思っている時も、第三の人物、イエス・キリストがおられるのです。そして、くどくどとした愚痴に耳を傾けてくださっている。
 その方は「 復活されたキリスト」です。
だから、私たちは失望しても、完全にそれに囚われてしまうことがないのです。明日はまた立ち上がるのです。
 私たちは長くキリスト信者をやっているので、これが当たり前のことと思ってしまう。しかし、当たり前ではないのです。私たちの住んでいる空間から、聴いていてくださるイエス・キリストの気配が完全に消えてしまったら、私たちはどうなるでしょう。私たちは閉じられた狭い空間で独り言をつぶやいてるようなことになって、窒息してしまいます。空気が通わない。聴いてくださる方があるので、深い呼吸ができます。  
 (この物語のクレオパには、まだ曲がりなりにも思いを話し合える一人の友人がいますが、現代の私たちにはそういう人さえもいなくなっているのではないでしょうか。下手に失望や怒りを他人に漏らすと、何かまずいことが起こるかもしれないと恐れて。)

「 『メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された。」

 何度も同じ苦労話をして、イライラさせる人は、自分の話を本当に聞いてもらえたと感じていないからだと言います。自分の話を本当に聞いてもらえたと感じた人は、心が開かれ始めます。深く呼吸ができるようになる。
 その開かれ始めた心に向かって、イエスは話し始められます。私たちの失望、落胆、怒りは、神の国に向かう大きな旅路の一部なのだと。聖書のどこを見ても、それが書かれている。
 苦難・死と栄光は、私たちの目に見える小さな範囲でつじつまが合うとは限りません。小さくつじつまが合う世界は狭い。今ここで耐え忍んだ苦しみが、来年には栄光の花を咲かせる・・そうならないことの方が多いでしょう。私たちはもっと大きな世界、豊かな流れの中に生きています。私たちが失望や落胆を寛大に耐え忍んだことは、私たちに見えない場所で、生きて見ることのない遠い未来に栄光をもたらすことでしょう。

「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになった。すると、二人 の目は開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。」

 イエスは弟子たちの前に姿を現す前から、ずっと共に歩いていてくださったと思います。足跡の喩え話のように。しかし、イエスが共にいてくださる、話を聴いていてくださるという事実は、常に再確認し、宣言し続けなければなりません。ミサの持つ意味の一つは、それです。

主キリストは、まことに復活された!


☆ 読書案内

 ヘンリー ・ナウエンの 『燃える心で』をおすすめします。
エマオの弟子の物語を、現代のキリスト信者の持っている思いに合わせて解説したものです 。
  ナウエンの良いところはたくさんありますが、 私が最も利益を受けたのは、福音書の状況を、現代の私たちが感じている思いに上手に翻訳するということです。この説教で引用した現代のキリスト者の感じる失望や落胆、怒りの叙述は本当によくできていると思います。
 なお、 この本は同じ訳者が訳し直しています。最初の訳の方が文章が引き締まっていて、良いと思います。