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年間第28主日(A)年の説教

マタイ22章1~14節

◆ 説教の本文

「王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。」

〇 この物語が「放蕩息子の物語」や「善きサマリア人の物語」と全く違うことはすぐ分かるでしょう。
ルカ福音書の二つの物語は、キリスト教の知識のない人でも理解できます。人間のいるところでは、どこでも起こり得る物語だからです。そして、私たちは登場人物の全てにそれなりに共感することができます。

家を飛び出して、遠い国で思い通りに生きようとする弟息子、その息子を心配し、帰ってきたら歓迎する父親、その歓迎ぶりを憤る兄息子、全てに共感することができます。実は私は、この父親はもう少しよく考えて、兄息子の顔を立てるようにすれば、うまく話が進んだんじゃないかと思っています。しかし、それはそれとして、弟息子を心配する父親の気持ちはわかるのです。

「善きサマリヤ人の物語」では、強盗に襲われた人、自分の旅を棚上げにして道を彼を助けようとしたサマリヤ人はもちろん、普通は悪者とされる祭司やレビ人にも共感することができます。

私たちは自分の生活感覚をもとにして、この物語を味わい、時には、「この親父、もうちょっと考えた方がいいんじゃないか、これじゃあ兄貴のメンツは丸潰れだ」とか、「祭司とレビ人は急ぎの用事があったんだろうなあ。あまり悪者にしちゃいけないんじゃないか」とか考えます。そして、それを仲間と分かち合います。「あーでもない」「こうでもない」と言い合いながら、次第に神の御心に近づいて行くのです。

〇 それに対して、「婚宴への招待」の物語には、私たちの生活感覚から共感できるところがほとんどありません。婚宴に招かれて断るところまではいいとして、使いに来た人たちを「捕まえて乱暴し、殺してしまう」人がいるでしょうか。
婚宴を主催する「王」とは神のことでしょうが、招待に応じないからといって、軍隊を送って滅ぼし、その町を焼き払う王には全く共感できません。人間の王でも共感できないし、ましてそんな神がいるでしょうか。

この物語は後の方になるほど、「そんなやつおらんやろ」と共感できなくなってきます。最後の無理やり婚宴に連れて来られた人を、礼服を着ていないからと言って追い出す(11~13節』のは「ご無体な」としか思えません。

〇 このタイプの物語はアレゴリーと呼ばれます。背景となる世界があって、物語の一つ一つのセンテンスがその世界の出来事と、一対一で対応しているのが特徴です。
例えば、その町の人々を虐殺し、焼き滅ぼしたのは、紀元70年のローマ軍による エルサレム攻略と対応しています。今週の「聖書と典礼」パンフレットには、そのような対応が色々書いてあります。逆に、物語の背景になってる出来事を知らなければ、この物語はほとんど意味不明です。

物語の中の一つ一つの部分に意味を持たせようとするので、この物語には生命力がありません。ぎこちない作り物に見えるのです。皆さんもそう感じるのではないでしょうか。「放蕩息子の物語」や「善きサマリア人の物語」は、 一つ一つの部分にも魅力があり考えさせられますが 、その生命力は物語全体にあります。

「人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ」

〇 この物語で生活感覚で共感できるのは、王が婚宴を準備して、人々を招く、しかし人々は何かと理由をつけて断るというところまでです。
だいぶ前から、会社が懇親会や社内旅行を企画しても、若い社員は参加を渋る傾向があるそうです。娯楽の少ない時代には、費用が会社持ちの懇親会や社内旅行は楽しみにされましたが、今では他に機会がたくさんあるので、お仕着せの娯楽は歓迎されないのです。

 古典落語の名作に「寝床」という話があります。招く側は善意でも、招かれる側は迷惑という話です。大店の旦那が義太夫に凝って、人に聞かせたくてたまらない。しかし 、その場がない。そこで、店の従業員や経営している長屋の住人を呼び集めて、ご馳走して、聞いてもらおうとします。
ところが、不幸なことに、この旦那はとても 善良な人ですが、義太夫は殺人的に下手なのです。そこで、従業員や長屋の住人は色々と理由をつけて断ろうとします。それがバレて旦那は大変怒り、従業員はクビ、長屋は追い出すと言い出すというドタバタです。
六代目円生は、旦那を長年商売一筋で真面目に働いてきて、従業員や長屋の住人にも親切な人として演出しました 。その旦那が働き詰めの人生の晩年に初めて得た楽しみを人々に嘲笑される悲しみを表現して、単なるお笑いに終わらせませんでした。六代目の口演をお聞きになれば、王様の悲しみと怒りがちょっぴりわかるかも知れません。

〇 この物語の婚宴への招待を断る人々も、宴会でただ飯が食えることが歓迎されたであろう2000年前の話ではなく、現代の話として聞くと大変実感があります。豊かな時代ですから、ご馳走なら食べる機会は十分にある。それよりも、畑に行って作物の成長を確かめる農夫の喜びと生きがい、商売の取引を成功させる実利とスリルを重視したのでしょう。

現代の宣教で、「神の国」がいかに素晴らしいかを力説することにはあまり意味がありません。誰も「神の国」を十全な姿で見たものは ありませんから、絵に書いたご馳走です。
だから、マタイ 12章では「神の国は次のようにたとえられる」と言っておきながら、神の国の素晴らしさを詳しく描写しようとはしていないのです。むしろ、神の国に入ろうとする人の妨げになることについて語っています。それを通して間接的に、神の国とはどういう場所かを語っているのです。年間第26主日の説教を読んでください。

〇 この物語の現代の信者に対するメッセージはおそらく、「神の国への招待を拒絶したことの結果は深刻である」ということでしょう。信者でない人に対して、そういう警告をすることは現実的には無意味ですから、信者でありながら、その行いによって実質的に招きを拒絶している人のことを言っていると思います。
しかし、そのメッセージを伝えるためには、この物語はあまり効果的ではないと思います。聖書は全て信者に役に立つことが書かれているはずです。しかし、どの部分も価値が同じであるわけではないのです。少なくとも、この物語に即して説教することは、私には難しいのです。
それでも、主日には説教しなければならないのが、神父の辛いところです。 この説教が少しでも皆さんのお役に立つといいのですが。

「私は貧しく暮らす術も、豊かに暮らす術も知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても、不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。」 (第二朗読)