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年間第23主日(C)年 説教

   ルカ14章25~33節  

◆ 説教本文

「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰を据えて計算しないものがいるだろうか。」

 私は1975年に大学を卒業して、大手の電機メーカーに就職しました。そして、7年後に退職して、修道生活に入りました。 もちろん修道生活に魅力を感じたからですが、会社生活に限界を感じたというのが直接の理由です。会社でした仕事は、私の能力をまったく越えたものではありませんでした。 そこそこにはできました。
 ただ、私のエネルギーの深い源泉をタップするものではなかった。在職中は大きな困難には出会ったことはありませんが、じわじわじわと難しくなっていました。仕事上や会社生活上で、もっと難しい状況が起こった時、それを乗り越えるだけの意欲が自分にはないと思ったのです。つまり、難しい状況でも、自分が粘って、それを乗り越えることに意味は感じないだろうと思ったのです。それはただ辛いだけの日々でしょう。そこで、乱暴なことをすると言われましたが、スタコラ撤退しました。

「もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。」

 修道会に入り、司祭になってからも、仕事からスタコラ撤退したことが何度かあります。単にその仕事が辛いから、苦しいから撤退したのではなくて、その仕事が辛さや苦しみも含め、自分のエネルギーの源をタップするかどうかでした。今日の福音書の表現を用いれば、それが「自分の十字架」であるかどうかです。苦しければ役に立つというものではないと思います。

  私は若い人に言ってあげたいことがあります。
仕事をどんどん変わる若い人に、ではありません。「石の上にも三年」という説教をするのは自分の役割ではないと思っています。むしろ、一箇所で頑張らなくてはならないと思うタイプの真面目な若者に対してです。
『置かれたところで咲きなさい』というベストセラーがありました。それは確かに一理あります。しかし、いつでも当てはまる真理ではないのです。ある人がこのタイトルを皮肉って言ったように、『 置かれたところで立ち腐れ』ということもあるのです。
 「置かれたところで咲きなさい」、こういうことわざのような知恵は、今の私のケースにこれは当てはまるのかという別の知恵を伴わなければ、人を縛るものになります。それでうまく行ったケースだけが人生論の本に書かれるのです。うまくいかなかったケースは書かれない。

 単に苦しいから仕事を変えるのか、その苦しさが自分のエネルギーの深い源泉をタップするものではないから方向転換するのか。その違いを見分けることは、若いうちは難しいでしょう。
私にしても、いつも正しく見分けられたわけではない。易きに流されたこともあると思います。しかし、その二つには「違いがある」ことを知るだけでも、若い人の将来のためになると思います。
 また、正しく見分けられたとしても、私たちは社会に生きているのであって、自分の思い通りに行動できるわけではない。意味のない苦しみだと思っても、家族の生活のためにその仕事を続けなければならないこともあるでしょう。自分しかやる人がいないというような事情や義理もあるでしょう。そんな場合でも、さっさと撤退してもいいのだということが福音書に書いてあることを知ることは大事です。
 大人は「 石の上にも三年 」、「転石は苔を生ぜず」という類の教訓だけを、若い人に与えたがるものだからです。若い人にはおとなしくしてもらうことが、自分の安心につながるからでしょう。

☆ 説教者の舞台裏
 この説教は自己啓発本の臭いを感じさせるでしょう。軽薄な知恵と思われる方もあるでしょう。しかし、私は人生の知恵を与えることも、説教の役割の一つだと思っています。特に、若い人に対してはそれを心がけています。
 愛や信仰の重要性を説くだけで、人生の選択に直接役に立つことのない説教ばかりでは困ると思っています。と言っても、教会には若い人はほとんどいないし、この説教にしても若い読者はいそうな気はしません。それでも、高齢者を通して、知恵が伝わることを期待しています。
 自分が伝えようとしている知恵が、真に福音に根差すものかどうかが勝負です。