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聖霊降臨 の説教 。 説教本文だけでも読んでください。


☆説教プランー 聖書の聖霊降臨は 共同体における聖霊の降臨、 宣教の起爆となる 出来事です。 日本の教会には それを思わせる出来事が 思い浮かびません。だからこそ日本の教会に聖霊が降臨してくださるように祈り求める熱い説教をするのは、一つの選択です。しかし、空振りになるでしょう。
今日は、個人同士の関係で、聖霊 とはどういう恵みをもたらしてくださる方かの説教をします。 その方が実際に役に立つ説教になる可能性が高いからです。

◆説教本文

聖霊様、今年、新たに、私に生けるイエス・キリストを顕してください

私たちは聖霊「を」祈り求めます。しかし、聖霊は神ですから、聖霊「に向かって」祈ることも必要です。 ある人は、失礼だから、聖霊ではなく、聖霊様と呼べと言いました。

さて、聖霊様は「顔のない神」とも言われて いて、 ビジュアルイメージに乏しいのです。 ビジュアルイメージのないものに 祈るのは難しい 。 イエス・キリストに祈ることが容易なのは、圧倒的に ビジュアルイメージが豊富だからです。聖霊にも 風や火のイメージはありますが、風や火に向かって祈ることは難しい。

聖霊様に向かって祈るためには、この方の与えてくださる恵みの中心を把握するとよいと思います。 聖霊の与えてくれる恵みは 実に多様なもので 、「聖霊の続唱」という聖歌には「憂いのときの慰め」「 暑さのやすらい」 というのまであります 。 ちょっと八百万の神みたいですね 。しかし、暑さのやすらいまで聖霊様に祈っていたら、結局、聖霊とはどういう方なのか、ぼんやりしたままです。

聖霊様の与えてくださる恵みの 中心となるもの。 それは、私の考えるところでは、イエス・キリストの現存を顕すことです。この方との生きた交わりを可能にすることです。 これには説明が必要でしょう。
イエス・キリストには ビジュアル・イメージがあり、 また福音書から 多くの情報を得られるので、 かえって、 イエス・キリストとはどういう方かが ステレオタイプになりがちです。 人間と付き合う場合でも、「これはこういう人だ」と イメージが固定してしまうと、 たとえそれが 好意的なイメージであっても、 生きた交わりを妨げます。こういう場面では、必ず冗談で場を和ませようとする人だというふうに。しかし、人とは、時に、思いもかけぬ深みを見せるものなのです。

私の好きな話があります。 村上春樹の『国境の南、太陽の西』という小説に出てくるエピソードです。 不倫を疑われるような行動があった夫が 妻に言うのです。こういう時に男性がよく言うセリフですが、「 これは君が思ってるようなことじゃないんだ」。
すると、妻は言います。 「私が思っていること がどうしてあなたにわかるの?」 つまり、 こういうシチュエーションで 妻が考えることはこうだ という思い込みが夫にはあるのです。 「じゃあ、何なの」という押し問答を予想しています。 夫は 事態はもっと複雑微妙であることを自分だけはわかっていると思っています。しかし、妻は夫が思っているよりずっと深みのある人間なのです。夫は妻を馬鹿にしているわけではないのですが、妻を知っていると思いこんでいるので、その深いの部分が見えなかったのです。長年一緒に暮らした妻が、新しく、深みを顕した瞬間です。

イエスキリストについて、私たちはよく知っていると思いがちです。「慈しみ深い方」、「私の友」というように。しかし、それはまだ言葉です。そのような美しい言葉が表す深みは、まだまだ奥があるのです。あなたが知っていると思っているイエスキリストには、まだ私たちを驚かせる深みがあるのです。
それを私たちに顕してくださるのは、聖霊様です。だから、聖霊降臨の大祝日には、こう祈り、求めましょう。

聖霊様、今年、新たに、イエスキリストを、私たちに顕してください。

☆補足ーなぜ、イエスが自分で自分を顕してくださらないのか。なぜ、聖霊という第三者を必要とするのか。私はその理由をうまく説明できませんが、何事も一者でなすことをあえてせず、第三者を介在させるのは、三位一体の奥義に関わる本質的なことのような気がします。パラクレートスとは、「 傍らに寄り添うもの」という意味です。