見出し画像

待降節第二主日(B年)の説教

イザヤ40章1~5, 9~11節
マルコ1章1~8節

◆説教の本文

「見よ、あなたたちの神
見よ、主なる神。
彼は力を帯びて来られ
御腕を持って統治される。」
(第一朗読)

〇 待降節の前半のテーマは「 キリストの再臨」です。これはキリスト教信仰全体の根幹でもあります。キリストの再臨なしには、キリスト教信仰はついに謎に終わるのです。

今日の朗読箇所でこのテーマが端的に現れるのは、第一朗読のイザヤ書です。旧約の預言は、救い主の「第一の到来」(降誕)と「第二の到来」(再臨)をはっきり区別することを知らないからです。

「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。
苦役の時は今や満ち、彼女の罪は償われた、と。罪のすべてに倍する恵みを主の御手から受けた、と。」

イザヤの預言のこの美しい章句は、黙示録の言葉を思い出させます。

「私はまた、新しい天と新しい地を見た。‐‐ そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』 (黙示録 21: 1~4)

〇 太宰治の『待つ』という短編は、自分を知らない世界に連れ出してくれる未知の人、ミステリアスな人物を待っている若い女性がヒロインです。
しかし、私たちは全く知らない方を待っているのではありません。2000年前のベツレヘムの静かな夜に、人間を訪れて(第一の到来)、人間の中に住んでくださった方を待っているのです。私たちはその方を親しく知り、その教えを聞いたのです。
もちろん、その方の全貌はまだ現れていません。しかし、私たちの人生を知り尽くし、憐れんでくださる方を待っているのです。その方が再び、私たちを訪れてくださる時を待っています(再臨=第二の到来)。
その時は明日かもしれないが、しかし多分、明日ではないでしょう。私たちの全てが去って、後の世代が地上に生きている時代でしょうか。しかし、その日は必ず来る!

「ある人たちは(キリストの再臨は)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにとあなた方のために忍耐しておられるのです。」(第二朗読)

〇 その方は、ご自分の再臨を待つもののために、毎年新たに、降誕祭の日に、私たちを訪れてくださいます。典礼暦の最も重要な意味は、この「今年新たに」というところにあります。

イエス・キリストは私たちの中にたしかに現存しておられます。しかし、その現存は日々の生活のルーチンの中で、次第に惰性に堕ち、色褪せ、ボケてきます。それを刷新し、また強めていくのが降誕祭です。

これは「祭り」というものの文化人類学的な意味もあります。神は、人間というものが「祭り」による刷新を必要とすることをよくご存知なのです。

〇 降誕祭が刷新の時になるためには、然るべき霊的準備が必要です。赦しの秘跡は良い準備になります。降誕祭の赦しの秘跡はシンボリックなものです。
赦しを受けるかどうかを迷っていることでは受けない方がよいと思います。つまり、「自分だけが悪いのではない」という思いがあまり強いものを義務的に持ち込まない方がよいのです。素直に「これは自分の罪です」と言えるものを告白すると良いと思います。

「洗礼者ヨハネ が荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」
            (了)