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待降節第2主日(A)年 説教

マタイ3章1~12節

◆ 説教の本文

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

 待降節の第2主日です。 待降節には 4回の主日があります。 第1主日のテーマは、先週の説教で言いましたように、「 主の再臨」です。 第4主日は「主の降誕」の直前ですから、その準備がテーマになります。

 では、第3主日の テーマは何でしょう。
「今年、新たにお生まれになるイエス」ではないかと思います。
古代教会の時代から、イエス・キリストの二つの到来が語られてきました。第1の到来、つまりイエスの御降誕と、第2の到来、すなわちキリストの再臨です。 しかし、その間に第3の到来があります。イエス・キリストが、私たち一人一人の中にお生まれになる。そして、今年「新たに」お生まれになります。

 洗礼を受けている人の心には、すでにイエスが来ておられます。しかし、そのイエスはいつの間にか、新鮮な輝きが失われているかも知れません。キリスト教の知識が増し、キリストの教えをかなり実践しているとしても、私たちの中におられるイエスは輪郭がボケてきている。柔軟でなくなっているかも知れません。福音のイエスではなく、掟のイエスになっているかも知れない。
 年ごとに、来てくださる幼子イエスを喜び迎え、マリア様、ヨセフ様と一緒に養い、育てることによって、私たちの心の中のイエス様は活き活きとされるのです。
「今年、新たに」こそは、典礼暦=教会暦の真髄です。

 洗礼者ヨハネは告げました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」あなた方が待っていた方が来られるのだから、ふさわしい準備をしなければならない。
 洗礼者は、大人になったイエス様がいよいよ活動を始める前にこう告げたのですが、今日、この言葉が典礼で読まれるのは、今年、新たに、私たちの心に来られるイエス様を迎えるために準備が必要だからです。準備がなければ、お迎えしても、あたふたしてしまって、出会いを十分に生かすことができません。

 今はあまり強調されませんが、四旬節だけでなく、待降節にも断食が薦められた時代があったそうです。この断食は四旬節の断食とは少し意味合いが違います。festive fast、つまり祝祭的断食といって、私たちの魂を出来事に敏感にするためのものです。
 私たちの心に、今年、新たに幼子イエスがお生まれになると言いました。しかし、その誕生は密やかで、幽き(かそけき)ものです。放っておくと、生活の喧騒の中に飲み込まれてしまいます。
 教会のクリスマスのお祝いの雰囲気も、その喧騒になり得ます。クリスマス・ツリーの飾り付けをしたり、聖劇を練習するのはもちろん良いことです。しかし、下手をすると、人間的な興奮と騒ぎになってしまって、幼子イエスの密やかな誕生を覆い隠してしまうかも知れないのです。

 準備は断食に限りません。断食は節制の象徴です。飲食、娯楽、無駄話の節制も、魂を敏感にします。ただし、思いつきで、やったりやらなかったりでは、待降節の節制にはなりません。小さなことを落ち着いた心で忠実に行うのが待降節の節制です。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

☆ 説教者の舞台裏

(1) 典礼暦の説明にスペースを割きました。待降節の仕組みを理解することは 大事です。それがないと、どの主日も同じような印象になってしまいます。 それではキリスト者の1年が平板になってしまいます。平板はキリスト者の大敵です。 

(2) 待降節には、なぜその福音箇所が朗読に選ばれているかを考えなければなりません。例えば、今日の福音朗読を読むと、洗礼者ヨハネの姿が印象的です。ヨハネの言ったことやラクダの毛衣と野蜜について語りたくなります。
 しかし、待降節第2主日に大事なのは「 主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」 という言葉です。ヨハネはその言葉を語った人として重んじられます。 ヨハネその人に深入りすることは、待降節第2主日のテーマから会衆の目をそらすことになりかねません。ヨハネについて語りたいなら、彼の祝日( 誕生、 殉教) があります。(了)