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四旬節第1主日(A)年 説教

本日の聖書

◆ 説教の本文

 「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」と、夏目漱石は言っています。軽い発言のようですが、人の世の難しさの80%くらいを言い当てている気がします。
 確かに人の世は難しい。本当にややこしい。年をとっていくと、次第にそれがしみじみとわかってきました。若いうちは、なんだかんだ言っても、「 正しい考えに基づいて、仲間を集め、努力していけば いつかは良くならないはずはない」と思っていたような気がします。それができないのは、頭が悪いか、努力が足らないからだと 。

 しかし、人間たちが作り出した世界のややこしさはそんな生易しいものじゃない。ウクライナ戦争を持ち出さなくても、自分の半径100 Mの範囲でも 十分にややこしい。そもそも、自分の正しい考えなるものからして怪しいものだ。

 今日の第1朗読、創世記の3章はそのややこしさの原因が何かという洞察を、物語の形で述べたものです。原因と言っても、社会学のようにクリアな形で「原因はこれだ!」と解き明かしているわけではありません。物語の形で人間の振る舞いを述べ、人間がこのように振る舞ってしまったから問題が起こったのだとほのめかしています。

 その振る舞いのどこが問題か考えるのが神学です。伝統的な神学は、「人間が神の言いつけに背いた」ことが問題なのだと考えてきました。
しかし、何故ある木の実を食べてはいけないかの理由をろくに説明せず、とにかくするなと厳しく命じるのは、まるでブラック校則のようです。教師の権威を強調して、ひたすら従順な生徒を作り出そうとしている学校のようです。

 別の読み方もあります。「 人間の性急さが問題なのだ」。
エヴァは、まずアダムと話し合うこともできました。「ヘビくんがこう言ってるんだけど、アンタどう思う」。二人で話しているうちに、なぜ神様はあんなことを命じたんだろうということを考えるようになったかもしれない。
 また、エヴァは神様のところに相談に行くこともできました。「最近知り合いになったヘビくんがこういうんですが、あの木の実を食べてはいけないのは何故でしたっけね」。じっくりと考え、周囲の人々と話し合ってから行動することを、神様は望んでおられるのではないでしょうか。それを怠り、「 じゃあ食べちゃうか」とサッサと行動してしまった。何か問題がありそうだとぼんやり感じないではなかったけれども、「 まあ、いいや、やっちゃえ。問題が起こったら、起こった時に考えればいいや」。
 怠惰は性急と裏表です。子育て、組織のリーダーシップなどで思い当たることはないでしょうか。今となっては問題が問題を生み、互いに原因となり、結果となっているので、何が本当の問題か見通せなくなっています。しかし、根本にあるのはやはり、この「性急」と、その裏側にある「怠惰」ではないでしょうか。自分が関わった深刻なトラブルを考えてみてください。

 イエス様は、このような「人間が生きる現実のややこしさ」を解きほぐすために来られました。悪魔は、人間が混乱のうちに生き続けることを望んでいるので、イエスの働きを妨害しようとします。それが今日の福音が語る悪魔の誘惑です。三つの誘惑は、人間が善を行おうとするときに受ける誘惑です。本当に時間と手間をかけることをしないで、手早く成果を上げようとする誘惑です。
第1の誘惑は、ご褒美で人を釣って成果を出そうとする誘惑です。
第2の誘惑は、自分の優秀さを顕示して人を引っ張ろうとする誘惑です。
第3の誘惑は、善を行うためにはまず権力をつかもうとする誘惑です。
これらの手段でも短いスパンではある程度の成果を上げることができるのですが、持続しません。そして、そういう努力はまた別の問題を引き起こすでしょう。

     (了)

☆ 説教者の舞台裏

(1) この説教は「原罪とは何か」という問いに対する私なりの解答です。
『気合の入ったキリスト教入門Ⅰ 根本問題をつかめ!』(ドン・ボスコ社)の第6講「 原初のズレ」に詳しく書きました。私の自慢の考察です。入手できる人は読んでください。わずか700円です。

(2) 私は、この物語を「神への不従順が引き起こした問題」として読むことが間違いだと言っているわけではありません。ただ、神様が人間に与えられたのは「物語」です。その物語をどう読むかは人間の責任です。伝統的な読み方を尊重しながらも、常に新しい読み方の可能性を探っていかなくてはなりません。

(3) 三つの誘惑についても、別の読み方があります。機会があれば 、また話します。